東日本大震災

一条真也です。

地震から一夜明けました。
朝日新聞」の朝刊を開くと、「東日本大震災 大津波」との大見出しが出ています。
「死者・行方不明850人超」と出ていますが、これはもうすでに1000人を超えています。
今回の地震マグニチュードは8.8でしたが、記録が残る1923年以降では国内で最大です。あの阪神淡路大震災よりも大きな地震が起こったわけです。
昨年2月のチリ大地震(M8.8)に匹敵する世界最大級の地震が日本を襲いました。

 
                  「朝日新聞」3月12日朝刊                              
                  「朝日新聞」3月12日朝刊
               
                  「朝日新聞」3月12日朝刊
         
                  「朝日新聞」3月12日朝刊


それにしても、こんな大きな活字を初めて新聞で見ました。さらに大きな活字が「毎日新聞」の一面に躍り、衝撃的な津波の写真も大きく掲載されています。
テレビの画面には、信じられないような光景が映し出されています。
ここでも、津波のすごさを改めて思い知りました。
最近観た映画「ヒア アフター」の冒頭の津波シーンを観ているようでした。


                   「毎日新聞」3月12日朝刊


12日午前3時20分、気象庁が石川県加賀、福井県、近畿、中国地方の日本海沿岸に津波注意報を出しました。これにより、北海道から沖縄まで、日本の沿岸すべてに大津波警報津波警報津波注意報のいずれかが出されました。
こんなことも、おそらく初めてではないでしょうか。
日本列島は四方を海に囲まれているということを再認識しました。
米西海岸・アラスカ津波警報センターによると、日本を襲った巨大地震による津波は、アメリカの西海岸にまで到達しました。
11日の午前、カリフォルニア州北部サンタクルーズの港では高さ約1.5メートルの波で小型ボートが押し流され、係留施設の一部が損壊するなどの被害が出たそうです。



今回、首都圏も地震の被害に遭いました。
関東大震災は、わたしが生まれる前の出来事です。
わたしにとっては、いわば歴史上の事件です。ですから、どうしても、リアルタイムの出来事であった阪神淡路大震災のことを思い出してしまいます。
日本列島は、もともと地震列島です。
日本人は、ある意味で地震には慣れています。
たしかに今回の地震の破壊力は想像以上でしたし、津波放射能漏れなど新たな問題もあります。しかし、関東大震災阪神淡路大震災のときの教訓を活かして、政府や行政はすみやかに対処し、被災地の方々は相互扶助に努めてほしいと思います。
今こそ、「地震の民」としての日本人の知恵と思いやりを発揮すべき時です。


2011年3月12日 一条真也

犠牲者の方々へ

一条真也です。

あまりの惨状に言葉がありません。
仙台市若林区の荒浜では200人〜300人の遺体が発見されました。
気仙沼市では4つの集落が壊滅しました。町の中心部が大津波にのみ込まれた岩手県大槌町では、なんと1万人以上の行方がわからないままです。
東日本大震災および大津波における死者は1000人を超えることが確実になりました。



痛ましい死に方をされた方々に対しては心から「お気の毒だ」と感じるとともに、どのような死に方をされても最後の目的地は同じだとも思います。
わたしは、 「死は最大の平等である」という言葉をよく使います。
箴言で知られるラ・ロシュフーコーは、「太陽と死は直視することができない」と語りました。そう、太陽と死には「不可視性」という共通点があるのです。
わたしは、それに加えて「平等性」という共通点があると思っています。
太陽はあらゆる地上の存在に対して平等です。
太陽光線は美人の顔にも降り注げば、犬の糞をも照らすのです。
わが社のサンレーという社名は、万人に対して平等に冠婚葬祭を提供したいという願いを込めて、太陽光線(Sunray)という意味を持っています。
「死」も平等です。「生」は平等ではありません。生まれつき健康な人、ハンディキャップを持つ人、裕福な人、貧しい人......「生」は差別に満ちています。しかし、王様でも富豪でも庶民でも乞食でも、「死」だけは平等に訪れるのです。 



また、世界中に数多くいる、死に臨んで奇跡的に命を取り戻した人々、すなわち臨死体験者たちは次のような共通の体験を報告しています。
死んだときに自分と自分を取り巻く医師や看護婦の姿が上のほうから見えた。それからトンネルのようなものをくぐって行くと光の生命に出会い、花が咲き乱れている明るい場所が現れたりする。さらに先に死んでしまった親や恋人など、自分を愛してくれた人にめぐりあう。そして重大なことは、人生でおかした過ちを処罰されるような体験は少ないこと、息を吹き返してからは死に対して恐怖心を抱かなくなったなどが主な内容です。
そして、いずれの臨死体験者たちも、死んでいるあいだは非常に強い幸福感で包まれていたと報告しています。この強い幸福感は、心理学者マズローの唱える「至高体験」であり、宗教家およびロマン主義文学者たちの「神秘体験」、宇宙飛行士たちの「宇宙体験」にも通じるものです。
いずれの体験においても、おそらく脳の中で幸福感をつくるとされるβエンドルフィンが大量に分泌されているのでしょう。
臨死体験については、まぎれもない霊的な真実だという説と、死の苦痛から逃れるために脳が作り出した幻覚だという説があります。
しかし、いずれの説が正しいにせよ、人が死ぬときに強烈な幸福感に包まれるということは間違いないわけです。しかも、どんな死に方をするにせよ、です。
こんな平等が他にあるでしょうか! まさしく、死は最大の平等です。
日本人は死ぬと「不幸があった」と馬鹿なことを言いますが、死んだ当人が幸福感に浸されているとしたら、こんなに愉快な話はありません。



このように「死」が平等であるとしたら、死の儀礼である葬儀も平等に執り行われねばなりません。わたしは阪神淡路大震災のときに、建築物の瓦礫の下に数多くの遺体が埋まっていると聞いて、本当に胸の痛む思いがしました。
ご遺族の心中を思うと、たまらない気分になりました。足がなくて天国に行っても歩けない、もっとひどいのは顔がなくて天国に行っても誰が誰だかわからない。
そういう遺体がたくさん瓦礫の下に埋まっているというのが、阪神大震災直後の状況だったわけです。わたしはできることなら、自分がスーパーマンになって瓦礫からすべての遺体を取り出し、きれいな体に修復してからお弔いをしたいと本気で思いました。
遺体も遺骨もないままの遺影だけの葬儀は本当につらいものがあります。
それは、2001年9月11日にアメリカで起こった同時多発テロのときも同じでした。あのときも、ワールド・トレード・センターの瓦礫の下に数千体の遺体が埋まっていたのです。
わたしはあの惨状をCNNで見たときに、冠婚葬祭とは結局のところ人間を尊重することなのだと悟り、2001年の10月1日に社長に就任したとき、わが社の大ミッションを「人間尊重」に決めたのでした。
今また、東日本大震災の信じられないような映像を見ながら、「死は最大の平等である」ことを改めて痛感し、さらに「人間尊重」の大切さを噛み締めています。
現在、気仙沼市などをはじめ、多くの瓦礫の下から「助けて」という声が聞こえているそうです。どうか、1人でも多くの方の命が助かりますように。それとともに、このたびの地震津波の犠牲になられた方々の御冥福を心よりお祈りいたします。


2011年3月12日 一条真也