『遺体』

一条真也です。

3月11日になりました。
あの「東日本大震災」から、ちょうど1年が経過したのです。さまざまな思いがこみあげてきますが、今夜は『遺体』石井光太著(新潮社)を再読しました。


震災、津波の果てに



著者は、1977年生まれの東京出身のライターです。
海外ルポをはじめとして貧困、医療、戦争、文化などをテーマに執筆してきたそうです。
本書の帯には「震災、津波の果てに」というキャッチコピーに続いて、「生き延びた者は、膨大な数の死者を前に、立ち止まることすら許されなかった――遺体安置所をめぐる極限状態に迫る、壮絶なるルポルタージュ!」と書かれています。



本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
プロローグ:津波の果てに
釜石市」地図
第一章:廃校を安置所に
第二章:遺体捜索を命じられて
第三章:歯型という生きた証
第四章:土葬か、火葬か
エピローグ――二ヵ月後に
取材を終えて



プロローグ「津波の果てに」では、冒頭に千葉という70歳の老人が登場します。
民生委員を務める千葉老人は、大震災の翌日、3月12日の正午、遺体の安置所となっている釜石市の体育館を訪れます。体育館の面積はバスケットボールのコート1面分で、床には隙間なくブルーシートが敷かれています。
その上に、30体もの遺体が安置されていました。
毛布にくるまれたもの、納体袋に入れられたもの、ビニールシートにつつまれたものなど、さまざまでした。犠牲者の数が多すぎて準備できなかったのか、棺に納められた遺体はほとんど見当たりませんでした。



そのときの様子が、本書には次のように書かれています。
「呆然として近づいてみると、警察官が数人がかりで遺体の体を押さえつけて腕や足を伸ばそうとしていた。遺体は死後硬直がはじまっており、ある者は腕や足を前に突き出したまま死に、ある者は顔だけを斜めに向けたまま死んでいる。別の者は、犬のように四つん這いになった姿勢で横向きに置かれている。
被害にあった地区では遺体が長らく野ざらしにされているのだろう。そのため、瓦礫の下敷きになったり、車中に閉じこめられたりしたときの体勢で死後硬直したまま運ばれてきているのだ。警察官はそれらの身元確認を行うために真っ直ぐにしなければならない。数人がかりで遺体の曲がった腕や足を引っ張るのだが、うまくいかないことも多く、つい業を煮やして体重をかけ過ぎて関節を外してしまうこともある。
体育館にいた人々は、骨が割れるような鈍い音が響いてもそれぞれの仕事に没頭し顔を上げようともしなかった。血の気が引いた青白い顔をして目を見開き、黙々と遺体の服を脱がしていく。警察官とは別に、白衣を着て手袋をはめた医師の姿もあった。
遺体の横にしゃがみ込み、胸を押したり、口のなかをのぞき込んだりしている。
運ばれてきた順から検案を行い、遺族に引き渡すために死亡診断書を作成していかなければならないのだろう」



千葉老人は、体育館で繰り広げられる光景を見ているうちに、自然と目頭が熱くなってきました。3年前に勤め先を退職し、小さな一軒家で妻と愛犬とともに年金暮らしをしている老人にとって、民生委員として地域の人々と交流することを除いて、海の風景を絵に描いたり、潮の香りにつつまれながら、昔ながらの友人たちと一緒に静かに暮らしていくのが一番の幸せだったのです。しかし、前日に起きた地震による津波によって、そのような平穏な日々など根こそぎ奪われてしまいました。
昨日の昼までは明るく笑っていた子どもや老人が泥だらけの悲惨な遺体となって、犬の死骸や瓦礫とともに道端に転がっています。
そして、無残にもカラスの群れについばまれようとしていました。



千葉老人のやりきれない気持ちは、安置所で働いていた人々も同じだったようです。
本書には、次のように書かれています。
「警察官、医師、市の職員、消防団員、彼らはマスクをし、分厚いゴム手袋をはめて遺体と向き合っているが、前日の昼までは誰1人として自分がそんな運命にさらされることになるとは想像すらしていなかっただろう。生まれ育った港町を何よりも愛し、ここで築き上げてきた小さな幸せが永遠につづくものと信じて疑わなかった者たちばかりだ。
だが、たった1つの大地震がそうしたものをすべて打ち砕いてしまい、彼らをここへ引き寄せた。医師は県警に検案を依頼されてつれてこられたのだろうし、市の職員は自治体からの命令があったのだろう。消防団員は被災地の最前線で捜索活動を行うなかでここに来なければならなくなったはずだ。津波という瞬時の出来事が、彼らをあの日以来もっとも残酷な光景がくり広げられることになった安置所へと放り込んだのである」


 
じつは、千葉老人は長く葬儀社に勤務していました。また、彼はこれまで民生委員などの人のしたがらない仕事を積極的に引き受けてきました。
彼は、釜石市長に「遺体の安置所がうまくいっていません」と申し入れます。
「うまくいっていないとは?」と訊ねる市長に、千葉老人は次のように答えます。
「遺体の取り扱い方を誰もわかっておらず、統率が取れていないのです。遺族も続々とやってきていますし、これからさらに増えるでしょう。今後は葬儀社をうまく動かしながらことを進めていかなくてはなりません。僕なら遺体の取り扱いや葬儀社の内情をわかっています。安置所の管理を任せてもらえないでしょうか」
市長は即座に「わかった。頼む」と言いました。
本書には、次のように書かれています。
「釜石は人口4万人、海沿いの小さな田舎町だ。市民劇場などのイベントごとがあれば、そこでみんなが顔見知りになり、親戚のような親密な付き合いをするようになる。そうした狭い人間関係に息苦しさを感じて外へ出ていく若者も多いが、いざこういう危機に陥ったときこそ人とのつながりが最大限に活きる」



安置所の悲惨さは、第一章「廃校を安置所に」でも、次のように書かれています。
「床に敷かれたブルーシートには、20体以上の遺体が蓑虫のように毛布にくるまれ一列に並んでいた。隅で警察官が新しく届いた遺体の服をハサミで切ったり、ポケットから財布や免許証を出して調べたりしている。2、30人いるのに物音ひとつしない。遺体からこぼれ落ちた砂が足元に散乱して、うっすらと潮と下水のまじった悪臭が漂う。死後硬直がはじまっているらしく、毛布の端や、納体袋のチャックからねじれたいくつかの手足が突き出している」
それから数日間、千葉老人や市の職員たちは、朝から何組もの家族とともに遺体を見て回りました。愛する肉親の遺体を目にしたとき、その前にひれ伏して救えなかったことを詫びる者もいれば、呆然として「嘘だろ」と何度もつぶやく者もいたそうです。



本書には、次のように書かれています。
「市の職員たちはこうした遺族にどう接していいかわからず、数歩離れて見守ることしかできなかった。しかし千葉だけは腰を引くことなく、遺族の隣に歩み寄って、手で顔を覆って泣いている人たちにやさしく言葉をかけた。ある家族には次のように言った。
『つらいかもしれませんが、亡くなった方はご家族に迎えに来てもらえてとても喜んでいると思います。急にお顔がやさしくなったような気がします。これからは毎日会いに来てあげてください。きっと故人の顔はもっと和らいでいきますから』
家族は故人を助けてやれなかったことを悔やみ、自分をくり返し責める。だからこそ千葉は彼らの気持ちが楽になる言葉をかけつづけたのだろう。
市の職員たちはそうした千葉の行動を目にして、見よう見真似で自分でも家族にはなしかけるようになった。千葉も彼らに遺族の心理状態や励まし方について積極的に助言をした。あの母親は毎日死んだ子に会いに来ているから交替でなぐさめよう、とか、あの遺体は夫婦だから一緒に並べよう、と。職員たちにも自覚が芽生え、ときには自分たちの意志で集まってどうするかを相談するようになっていった」


遺体の多くは、当然ながら死後硬直していました。
手足を突っ張らせていたり、膝が曲がったままだったり、さらには絶叫したように口が開いたままの状態になってしまっているものもありました。
遺族から「何とかしてください」と訴えられた千葉老人は、こうしたことに配慮して、市の職員や警察官が硬直した遺体を強引に納体袋に入れようとしているのを見かけると、近づいていって死後硬直の解き方を教えることにしました。
本書には、次のように書かれています。
「死後硬直は筋肉が化学変化によって固まって起こるため、筋肉を揉み解しながら伸ばすともとの状態にもどることがある。
たとえば腕が曲がっているときは遺体の横に膝をついて、右手で関節の筋肉を揉み、左手で伸ばす。あるいは口が開いているときは、顎の筋肉を左右交互にさすりながら下顎から持ち上げるように閉じていく。5分も10分もそれをつづけると、ゆっくりとだが筋肉がほぐれて、固まっていた腕や顎がもとにもどるのだ。
千葉は遺体を励ますようにこう語りかけた。
『ちょっとつらいだろうけど頑張ってくれな。そうだ、もうちょっとだ』
すると、遺体は言うことを聞くかのように手足を伸ばす。こうして体を真っ直ぐにしてから納体袋に納めておけば、遺族が会いに来ても驚き嘆くようなことはないはずだった。千葉は納体袋に入った遺体に向かって声をかける。
『頑張ってくれて、ありがとうな。ちょっと暗くなるけど、ここに入って我慢してね。すぐに家族が迎えにきてくれるからね』
一言そう語りかけるだけで、残酷な現場の空気が和んだ」



本書の第二章「遺体捜索を命じられて」には、遺体発見の現場のようすが生々しく描かれています。これを読んだ者は、誰でも暗澹たる気分になることでしょう。
たとえば、次のようなくだりがあります。
「犠牲者はお年寄りが多かったが、お腹の膨らんだ若い妊婦と3歳ぐらいの小さな女の子の遺体も横たえられていた。聞くと、妊婦だった母親が幼い娘を連れて逃げているときに津波に巻き込まれたのだという。まだ20代だろう。
『誰かこの妊婦を知っているか』と1人が言った。
全員がうつむいて口を真一文字に結んでいた。知人がいなくてよかったという思いが広がる。だが、次の瞬間には自分がこの身重の女性を担架に乗せて運ばなければならないのかと思い物怖じする」



また本書には、坂本という市職員が幼い女の子の遺体を発見するくだりも出てきます。
「仙寿院の石段を下りて瓦礫を跨ぎながら進んでいくと、道路の脇に人間らしきものが横たわっているのが見えた。2歳ぐらいの女の子だった。
濡れた服が肌にはりつき、体中に大量の砂が付着している。
海水を飲んだのだろう、幼い顔が苦悶するように歪んでいた。
『こんな幼い子だったのか・・・・・・』
小さな顔や手からは血の気が完全に失われていた。わずか2歳の女の子が一晩中ひとりぼっちで瓦礫にうずもれたままでいたことが哀れでならなかった。寂しかったろうに。
坂本はしばらく遺体を見つめてから言った。
『遺体をここに置いたままにしておくわけにいかない。いったん仙寿院に運ぼう』
坂本は瓦礫のなかから角材を拾い出し、近所の人からもらった毛布をそれに巻きつけ、担架をつくった。女の子の遺体をそこに乗せて運ぶことにしたのである。軽過ぎる遺体を持ち上げたとき、潮と泥の臭いが鼻をついた。急に昨年生まれたばかりの孫のことが思い出され、涙がこみ上げてきた。
なぜこんな幼い子が人生の喜びを知ることのないまま泥を被って苦しみながら死ななければならないのか」



同業者からの証言を聞いても、津波による遺体発見のようすは凄惨をきわめました。
当時の様子が、本書には以下のように非常にリアルに描写されています。
「海で見つかる遺体としては、女性が多く、男性の場合は肥満体形の者が大半だった。こえは脂肪率が大きくかかわっている。脂肪は水に浮くが、筋肉は沈む。そのため、男性より女性、痩せ形より肥満体形の人のほうが海で見つかる率が高い。ただ、損傷の激しい遺体の場合は顔を見ただけでは男女の区別がつかず、遺体の特徴確認をする際は性器まで見て確かめなければならなかった」
海上保安庁は海で遺体を見つけてすぐに納体袋に入れていた。そのせいで、袋のなかには遺体から漏れた体液、血液、海水といったものが溜まっており、動かす度にチャプチャプと音を立てる。これがこぼれるとひどい悪臭にさらされることになる」


 
そして第三章「歯型という生きた証」には、生まれたばかりの赤ん坊の遺体を抱いて遺体安置所にやって来た老女が登場します。
そこでは、次のように「人間の尊厳」に関わるやり取りがありました。
「老女は孫を抱いたまま、入り口にいた警察官にかすれる声で言った。
『孫が死んでしまったのです。火葬の書類を書いてもらうために、ここにつれてきました』
津波による死亡者はすべて安置所で検案を行い、死亡診断書を出すことになっていた。おそらく被災地にいた警察か自衛隊にそう言われて自分の手で運んできたのだろう。
老女は背中を丸めて言った。
『どなたにこの子を預ければいいのでしょうか』」
職員たちは、老女は両親の代わりに遺体を運んできたのかもしれないと思ったそうです。実の親は、我が子の遺体を自らの手で抱いて安置所に運ぶことは難しいでしょう。それで、祖母がその辛い役割を代わったのではないかと推測したのです。
警察官たちは、頭を下げてこう言いました。
「御苦労様でした・・・・・・ご遺体は火葬の日までこちらでお預かりいたします。病院や葬儀社には空きがなく、ここに安置することになっているのです」
本書には、そのときのようすが次のように描かれています。
「警察官は遺体を受け取り、老女から名前や住所や死亡状況の詳細を聞いて書き記した。老女はうつむき、時折悲しそうな目で孫の遺体を見ながら答えていた。
この日、遺体をつつむ毛布の上に貼られた身元確認のメモの年齢欄には、次のように書かれていた。
<生後100日>
職員たちは赤ん坊の傍を通るときに顔をそむけて、その痛ましい数字が視界に入らないようにした」



エピローグ「二ヵ月後に」には、著者が仙寿院の本堂を訪れたときの様子が書かれています。著者は、そこで惠應という名の住職が設えた祭壇を見て、述べています。
「私は目を落とした。そのとき、棚の前に置かれた祭壇に、お菓子や花などが供えられていることに気がついた。“うまい棒”や“ワンカップ大関”が山のように並ぶ。身元がわかっていない遺体に対して、誰がご焼香をしに来るというのか。
惠應は私の視線に気がついたようだった。
『それはね、近くに住む釜石の人たちがお祈りをしにきて供えてくれたものなんだよ』
『まったく見ず知らずの人たちが来たということですか?』
『そうだね。身元不明者の遺族、近所に暮らす被災者、ボランティアのスタッフ、いろんな人たちがここで、身元不明の遺骨にご焼香をあげてくれているんだ。毎日かならず何人かが手を合わせている』
これまで釜石で暮らす人々が故郷を愛し、隣人を肉親のように思い、過疎化した小さな町で支え合って暮らしてきたことを思い出した。
『身元不明の遺骨でも忘れ去られているわけじゃないんですね。こうやってたくさんの人に祈ってもらっている』」



著者は「遺体は誰からも忘れ去られてしまうのが一番つらい。だからこそ、僕を含めて生きている者は彼らを1人にさせちゃいけない」と言います。
かつて安置所で、千葉老人はその一心で毎日のように遺体の傍に寄り添い、手を合わせ、言葉をかけました。彼だけでなく、遺体搬送班のスタッフ、歯科医師、寺の住職などなど、全員が安置所に集まり、遺体のために自分にできることを必死でやってきたのです。著者は、次のように述べます。
「そして今、遺骨が寺院に納められることになり、今度は市民たちが彼らと同じように遺骨に花を供え、手を合わせ、語りかけるようになった。無数の人の思いが1つになって、釜石は新たな道を歩みはじめているのだ。
私は棚に並べられた遺骨を1つ1つ見ていった。供えられた花や果物の甘酸っぱい香りがしている。私は胸のなかでそっとつぶやいた。
みなさん、釜石に生まれてよかったですね」



最後の「取材を終えて」で、著者は次のように本書執筆の日々を振り返っています。
「最初は、福島、宮城、岩手の沿岸の町を回り、そこでくり広げられる惨劇を目撃することになった。幼いわが子の遺体を抱きしめて棒立ちになっている20代の母親、海辺でちぎれた腕を見つけて『ここに手があります!』と叫んでいるお年寄り、流された車のなかに親の遺体を見つけて必死になってドアをこじ開けようとしている若い男性、傾いた松の木の枝にぶら下がった母親の亡骸を見つけた小学生ぐらいの少年・・・・・・目に飛び込んでくるものは、怖気をふるいたくなるような死に関する光景ばかりだった。
東日本大震災津波によって死亡した人の数は、行方不明者も合わせて約2万人。一瞬のうちにこれほどまでに膨大な遺体があちらこちらに散乱したのは、66年前の太平洋戦争後初めてのことであり、震災に限れば関東大震災から88年の間で最大の規模の犠牲者数だ。現代の日本人がさらされた最悪の災害だといえるだろう」



著者が初めて釜石市に入ったのは、2011年3月14日でした。
この頃は、被災地も安置所も大変混乱していました。
著者が関係者に長時間の聞き取りをすることは困難であり、4月に入ってから改めて遺体安置所の関係者と面会したそうです。そして、関係者1人1人から当時の体験談を聞いていきました。著者は、次のように述べます。
「本書では、それらの証言を私の視点で構成することで釜石の安置所をめぐる約3週間の出来事を主に描いたつもりだ。実際に話を聞いたのは、本文で名前を記した人物の他、安置所に携わった50名以上にのぼる。現実というのは立ち位置によって見える光景が大きく異なるが、複数の目線を置くことで、人々がこの膨大な死にどう向き合っていったかということをつたえようと試みた」



本書は、戦時にもなかった未曾有の大量遺体を前にした人々の優れたドキュメントとなっています。次々と直面する顔見知りの「遺体」に立ちすくみながら、人々はどのように弔いを行っていったのか。そこには、もはや「無縁社会」とか「葬式は、要らない」といった言葉など存在しませんでした。一時的な土葬を経て、現在、ほとんどの遺体は火葬されました。しかし、今でも多くの犠牲者の遺体が発見されていません。
それでも、残された人々は弔いを行わなければなりませんでした。


「のこされた あなた」こそが「遺体」である



わたしは『のこされた あなたへ』(佼成出版社)を書きましたが、同書には「遺体がないあなたへ」という章があります。そこで、わたしは次のように書きました。
「あなたは、あなたの祖先の遺体であり、ご両親の遺体なのです。あなたが、いま生きているということは、祖先やご両親の生命も一緒に生きているのです」
「のこされた あなた」こそが、亡くなられた方の「遺体」に他ならないのです。
この事実を、ぜひ多くの方々に知っていただきたいと思います。最後に、東日本大震災で犠牲となられたすべての方々の御冥福を心よりお祈りいたします。合掌。


2012年3月11日 一条真也

東日本大震災1周年

一条真也です。

今日は、2012年3月11日です。
東日本大震災が発生してから1周年になります。
死者は1万5854人、行方不明者は3155人、そして避難者は34万3935人。
まさに、日本人がこれまで経験したことのない「未曾有の大災害」でした。


追悼式のようす



本日午後、国立劇場(東京都千代田区)で政府主催の追悼式が営まれました。
このように自然災害の追悼式を政府が主催するのは史上初だそうです。
天皇・皇后両陛下、野田佳彦首相ら三権の長、被害が大きかった岩手、宮城、福島の被災3県の遺族代表ら約1200人が参列しました。
震災発生時刻の14時46分には参列者全員で黙祷を捧げて、犠牲者の冥福を祈りました。わたしも、家族と一緒に自宅で黙祷しました。
ブログ「黙祷とは何か」に書いたように、黙祷とは弔意の行為です。
わたしは、心の中で多くの犠牲者に語りかけ、その冥福を心から祈りました。



最初に、野田佳彦首相が式辞を述べました。
野田首相は、「亡くなられた方々の御霊に報い、そのご遺志を継いでいくためにも、本日、ここに3つのことをお誓いいたします」と語り、以下の3つの誓いを述べました。
1つめは、被災地の復興を1日も早く成し遂げること。
2つめは、震災の教訓を未来に伝え、語り継いでいくこと。
3つめは、わたしたちを取り結ぶ「助け合い」と「感謝」の心を忘れないこと。
そして、「我が国の繁栄を導いた先人たちは、危機のたびに、よりたくましく立ち上がってきました。私たちは、被災地の苦難の日々に寄り添いながら、共に手を携えて、『復興を通じた日本の再生』という歴史的な使命を果たしてまいります」と述べました。



追悼式には、天皇陛下も参列されました。心臓手術後の初のご公務です。
この追悼式にどうしても参列するために、天皇陛下は日程を逆算して手術の日を決められたそうです。天皇陛下は、以下のようなお言葉を述べられました。
東日本大震災から1周年、ここに一同と共に、震災により失われた多くの人々に深く哀悼の意を表します。
1年前の今日、思いも掛けない巨大地震津波に襲われ、ほぼ2万に及ぶ死者、行方不明者が生じました。その中には消防団員をはじめ、危険を顧みず、人々の救助や防災活動に従事して命を落とした多くの人々が含まれていることを忘れることができません。さらにこの震災のため原子力発電所の事故が発生したことにより、危険な区域に住む人々は住み慣れた、そして生活の場としていた地域から離れざるを得なくなりました。再びそこに安全に住むためには放射能の問題を克服しなければならないという困難な問題が起こっています。
この度の大震災に当たっては、国や地方公共団体の関係者や、多くのボランティアが被災地へ足を踏み入れ、被災者のためにさまざまな支援活動を行ってきました。このような活動は厳しい避難生活の中で、避難者の心を和ませ、未来へ向かう気持ちを引き立ててきたことと思います。この機会に、被災者や被災地のために働いてきた人々、また、原発事故に対応するべく働いてきた人々の尽力を、深くねぎらいたく思います。
また、諸外国の救助隊をはじめ、多くの人々が被災者のためさまざまに心を尽くしてくれました。外国元首からのお見舞いの中にも、日本の被災者が厳しい状況の中で互いに絆を大切にして復興に向かって歩んでいく姿に印象付けられたと記されているものがあります。世界各地の人々から大震災に当たって示された厚情に深く感謝しています。
被災地の今後の復興の道のりには多くの困難があることと予想されます。国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくようたゆみなく努力を続けていくよう期待しています。そしてこの大震災の記憶を忘れることなく、子孫に伝え、防災に対する心掛けを育み、安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います。
今後、人々が安心して生活できる国土が築かれていくことを一同と共に願い、御霊への追悼の言葉といたします」



ブログ「祈る人」にも書いたように、心学研究家の故・小林正観氏の遺作『淡々と生きる』(風雲舎)には、次のように書かれています。
天皇は、1月1日早朝に起きると、東西南北の四方に向かってお祈りをします。『今年もし日本に災いが起きるならば、まず私の身体を通してからにしてください』と。それを『四方拝』といい、毎年やっているそうです。別の人から聞いた情報では、歴代天皇がそう祈って、この世は続いてきた。天皇がそういうふうに言うことを、皇太子の時代から教え込まれる。皇太子だけ。『あとを継いだら、あなたは必ずそれを言うのですよ。日本国民を代表して、「まず私の身体を通してからにして下さい」と言うのですよ』と教え込まれる。歴代の天皇は1月1日にそれを言ってきた」
この天皇陛下の言葉から、小林正観氏は「人間の魂というのはものすごいものだ」と教えられたそうです。そして、「ここまで崇高になることができる、日本にはとんでもない人がいた、そういう崇高なことを祈る人がいた」ことに驚愕したそうです。


小林氏は、いわゆる天皇崇拝者ではありませんでした。
『淡々と生きる』には、次のように書かれています。
「私は天皇制度を礼賛する立場の人間ではありません。
もともと全共闘ですから、天皇制度を否定する立場で生きてきました。
でも、天皇がそういうひと言を元旦に言っている人であることを考えると、その災いを一身に受けきれなかったという思いがたぶんあるのだろうと思ったのです。その結果として、被災地の人々の前に膝をついて言った『大変でしたね』のひと言には、『申し訳ない』という気持ちが括弧でくくられている気がします。『自分の身体で受け止められなかった、申し訳なかった』という、四方拝での言葉の内容が見えるような気がします。そういう目で天皇の動きを見ていくと、申し訳なさがあると思います」



わたしは、追悼式の様子をテレビで観ましたが、天皇陛下の表情には、たしかに「申し訳ない」という気持ちが表れているように思いました。
「自分の身体で受け止められなかった、申し訳なかった」という気持ちがこれ以上ないほど感じられて、わたしは泣けて仕方がありませんでした。
東日本大震災後、天皇陛下は7週連続で被災地・避難所をご訪問されました。
これは、皇室史上初となる熱心なご訪問でした。
そこでは、1人1人の被災者に温かく声をかけられました。
被災地・避難所での滞在時間は約9時間11分にもなりました。
ここまで、被災者を見舞った国家の元首や政治家が世界のどこにいるでしょうか?
ましてや、がんに冒され、心臓に病を患った方がそこまでされたのです。なぜか?
それは、その方こそが日本で一番の「祈る人」であり、「悼む人」だったからです。
わたしは、そのことを思うと、本当に涙がとまりませんでした。



今日は、陸前高田市石巻市をはじめ、被災各地でも追悼式が行われました。
それぞれの地で、残された人々が犠牲者の御霊を悼みました。
2011年3月11日は、日本人にとって決して忘れることのできない日になりました。
三陸沖の海底で起こった巨大な地震は、信じられないほどの高さの大津波を引き起こし、東北から関東にかけての太平洋岸の海沿いの街や村々に壊滅的な被害をもたらしました。その被害は、福島の第1原子力発電所の事故を引き起こしました。
そう、いまだに現在進行形の大災害は続いているのです。



大量死の光景は、『古事記』に描かれた「黄泉の国」がこの世に現出したようでもあり、また仏教でいう「末法」やキリスト教でいう「終末」のイメージそのものでした。
津波の発生後、しばらくは大量の遺体は発見されず、いま現在も多くの行方不明者がおられます。火葬場も壊れて通常の葬儀をあげることができず、現地では土葬が行われました。さらには、海の近くにあった墓も津波の濁流に流されました。
葬儀ができない、遺体がない、墓がない、遺品がない、そして、気持のやり場がない・・・・・まさに「ない、ない」尽くしの状況は、今回の災害のダメージがいかに甚大であり、辛うじて助かった被災者の方々の心にも大きなダメージが残されたことを示していました。現地では毎日、「人間の尊厳」というものが問われました。亡くなられた犠牲者の尊厳と、生き残った被災者の尊厳がともに問われ続けていたのです。
この国に残る記録の上では、これまでマグニチュード9を超す地震は存在していませんでした。地震津波にそなえて作られていたさまざまな設備施設のための想定をはるかに上回り、日本に未曾有の損害をもたらしました。じつに、日本列島そのものが歪んで2メートル半も東に押しやられたそうです。



それほど巨大な力が、いったい何のためにふるわれ、多くの人命を奪い、町を壊滅させたのでしょうか。あの地震津波原発事故にはどのような意味があったのでしょうか。
東日本大震災以後、さまざまな人々がさまざまなことを考えました。
これからの防災対策、避難の方法、避難所の問題、ボランティアの問題、そして原発の安全性・・・・・すべて、日本人の幸福のために考えられてきました。
でも、わたしは東日本大震災愛する人を亡くした人たちのことを考えました。
人にはそれぞれの役割があり、それぞれに考えるべきことがあります。



愛する人を亡くし、生き残った方々は、これからどう生きるべきなのか。
そんなことを考えながら、わたしは『のこされた あなたへ』(佼成出版社)を書きました。
もちろん、どのような言葉をおかけしたとしても、亡くなった方が生き返ることはありませんし、残された方の悲しみが完全に癒えることもありません。
しかし、少しでもその悲しみが軽くなるお手伝いができないかと、わたしは一生懸命に心を込めて本書を書きました。時には、涙を流しながら書きました。


3・11 その悲しみを乗り越えるために



のこされた あなたへ』で、わたしが一番言いたかったことは何か。
それは、残された人は、亡くなった愛する人に必ずまた会えるということです。
死別はたしかに辛く悲しい体験ですが、その別れは永遠のものではありません。
残された人は、また亡くなった人に会えるのです。
風や光や雨や雪や星として会える。
夢で会える。
あの世で会える。
生まれ変わって会える。
そして、月で会える。
世の中には、いろんな信仰があり、いろんな物語があります。しかし、いずれにしても、必ず再会できるのです。ですから、死別というのは時間差で旅行に出かけるようなものなのです。先に行く人は「では、お先に」と言い、後から行く人は「後から行くから、待っててね」と声をかけるのです。それだけのことなのです。



考えてみれば、本当に不思議なことなのですが、世界中の言語における別れの挨拶に「また会いましょう」という再会の約束が込められています。
日本語の「じゃあね」、中国語の「再見」もそうです。
英語の「See you again」もそうです。
フランス語やドイツ語やその他の国の言葉でも同様です。
これは、どういうことでしょうか。世界中に住む昔の人間たちは、辛く、さびしい別れに直面するにあたって、再会の希望をもつことでそれに耐えてきたのかもしれません。
でも、こういう見方もできないでしょうか。二度と会えないという本当の別れなど存在せず、必ずまた再会できるという真理を人類は無意識のうちに知っていたのだと。
その無意識が、世界中の別れの挨拶に再会の約束を重ねさせたのだと。
そう、別れても、わたしたちは必ず再会できるのです。
「また会えるから」という言葉を合言葉に、愛する人との再会の日を楽しみに、残された方々には生きていただきたいと心から願っています。


被災地・石巻の海に上る月



言うまでもなく、これからも人間は死に続けます。多くの地震津波や台風で、そしてテロや戦争で、世界中の多くの人命が失われることでしょう。また、天災や人災でなくとも、病気や事故などで多くの方々がこの世を卒業されていくでしょう。
愛する人と死に別れることは人間にとって最大の試練です。
しかし、試練の先には再会というご褒美が待っています。けっして、絶望することはありません。けっして、あせる必要もありません。最後には、また会えるのですから。
どうしても寂しくて、悲しくて、辛いときは、どうか夜空の月を見上げて下さい。
そこには、あなたの愛する人の面影が浮かんでいるはずです。
愛する人は、あなたとの再会を楽しみに、そして気長に待ってくれることでしょう。
東日本大震災から1年、多くの死者たちに支えられて、わたしたちは生きていきます。
そう、わたしたちは、これからも生きていくのです。


2012年3月11日 一条真也