『おひとりさまの老後』

一条真也です。

遅まきながら、上野千鶴子著『おひとりさまの老後』(法研)を読みました。
本日開催されるパネルディスカッションの会場がある博多の天神に向かう時間を利用して一気に読みました。
わたしは、これまで著者の本を読んだことがありませんでした。
もちろん、その勇名(!)は存じ上げておりました。
でも、上野氏の研究分野や著書のタイトルを知ると、なんだか自分には合わないと思っていたのです。この本を読むのも、正直言って、気が進みませんでした。
しかしながら、「葬式」や「隣人」についての本を書く上で、どうしても読まなければならない必読図書だとわかったのです。
読んでみると、最初は違和感もあったものの、読み進むうちに共感するところがたくさん出てきました。何よりも文章にリズムがあり、非常に読みやすかったです。
また、いわゆる独居老人の問題を扱っているのに全然暗くない。
これは、大変な筆力だと感心しました。
内容も、「友人にはメンテナンスがいる」「ベッドメイトよりテーブルメイト」「メシがうまくなる相手を少人数で」「大晦日ファミリー、失楽園なべ家族」など、ユーモアたっぷりに人間関係を豊かにするノウハウが惜しみなく紹介されており、非常に面白かったです。
「職場に友人はいなくてけっこう」とか「ヒマはひとりではつぶれない」などは少々、わたしには異論があるのですが。

                    極上の人生論



「サクセスフル・エイジング」が「アンチ・エイジング」の別名にすぎないというのは同感で、わたしも『老福論』(成甲書房)に同じことを書きました。


最も共感したのが、「愛した記憶の『在庫』は多くても困らない」という文章です。
上野氏は次のように書かれています。
「喪失の経験がつらいのは、同じ時間と経験を共有しただれかが、その死ごと記憶をあちら側へ奪い去ってしまうから。記憶とは、そのひとのなかに自分が生きているということだから、そのひとの記憶のなかに生きていた自分の大切な部分をもぎとられてしまう。それはとりかえしのつかない喪失だ。埋めようと思っても埋めあわせすることのできない欠落感が生まれる。」
わたしが、『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)で書いたのも同じことでした。
上野氏は、自分が愛したことのある人には生き延びてほしいと願っているそうです。「たとえ過去に属するとしても、そのひとの記憶のなかに愛し合った思い出が生きていると思えるからだ」そうです。
そして、地球上のどこであれ、その人が生きている事実を知っているだけで安心できるというのです。いやあ、思っていたより、上野氏ってロマンティストなんですね!(失礼)
でも、わたしと同じ考えに触れて、すごく嬉しくなりました。


次の文章も心に残ります。
「ひとは死んでなにを遺すか?モノは散逸し、無くなり、腐る。不動産は人手にわたる。最後に遺るのは、残されたひとびとのうちにある記憶である。
ひとは死んで、残った者に記憶を残す。そして記憶というのは、それをもったひとが生きているあいだは残るが、そのひとたちの死とともにかならず消えてなくなる運命にある」
まさに、このコンセプトで、わたしは『思い出ノート』(現代書林)を作りました。
なんだか、わたしは本当は上野氏の本をたくさん読んでいて、いっぱい影響を受けているような気になってきました。


そして、「葬式」についてです。上野氏は既存の宗教による葬式に違和感をおぼえながらも、基本的には葬式は必要とお考えのようです。
わたしは、葬式とは最後の「自己表現」であると考え、個性的な演出には大賛成ですが、上野氏も「旅立ちの支度だから、どこか遠い国に行くように、あれこれ楽しく準備すればよい」として、さらに次のように書かれています。
「最近では人前結婚ならぬ、人前葬が増えてきた。故人の好きだった花で埋めつくすとか、音楽葬とかさまざま。祭壇には神の仏もいらない。故人の写真が一枚あればいいから、生前からお気に入りの写真を用意して、『これを使ってね』と友人に頼んでおくひともいる。結婚式にはプロに写真を撮ってもらったのだから、一世一代の旅立ちの写真もプロに撮ってもらえばよい。賛美歌やお経の代わりに、好きな音楽を流してもらおうと、音源を用意しているひともいる。死に装束をデザインして準備しているひとや、骨壷を自分で焼くひとまでいろいろ。」
この最後の、死に装束をデザインするというのは、おそらく「寿衣(じゅい)」のことだと思います。また、自分で焼く骨壷というのは、おそらく「解器(ほどき)」のことだと思います。寿衣も解器も、わたしの記憶では一冊の本にしか紹介されていません。
わたしが監修した『「あの人らしかったね」といわれる自分なりのお別れ<お葬式>』(扶桑社)です。
もしかすると上野氏は、わたしの監修書を参考にしてくれたのかもしれません。
だとしたら、とても光栄なことだと思います。
最後に、自分が死んだら、京都の大文字焼きの「大」の字を「犬」に変える「てん」の場所に遺骨を埋めてほしいというのです。愛してやまなかった小鳥と犬がすでにその位置に埋められているというのです。
わたしは、これを読んで泣きました。
これほど、おひとりさまの自由と(上野氏には怒られるかもしれませんが)哀しみを表現した文章を知りません。


世界一の高齢国である日本。
確実に「おひとりさまの老後」を迎える日本人は増えていきます。
本書は、そんな「おひとりさま」たちに対する素晴らしいエールです。
そして、極上の人生論となっています。
なんだか、上野千鶴子サンの熱烈なファンになりそうな気がしました。


2010年3月8日 一条真也