混ざり合った日本の私

一条真也です。
わたしは、冠婚葬祭の会社を経営しています。冠婚葬祭業ですから、神社や寺院とのお付き合いも当然多いです。個人的に親しくさせていただいている神官や住職の方々もたくさんいます。そのせいか、他人からは宗教に詳しい人と思われているようで、よく質問されます。
日本人と宗教の関わりについてのものが多いですね。


たとえば、次のような質問です。
「神社での神前結婚式が減ってきているようだが、日本人の心が神道から離れていっているのか」
「教会でのチャペル・ウエディングが増えているということは、日本でキリスト教の勢力が拡大しているのか」
「日本の仏教は『葬式仏教』などと言われる。この世に生きる人間の心を救うはずの宗教が葬式にばかり熱心なのはよろしくないのでは」
儒教は宗教ではなく、道徳ではないのか」
「家に神棚も仏壇もあるが、神道と仏教を同時に信仰していることになるのか。おかしくないか」
「日本人ほど宗教に対して、いいかげんな国民はいないのではないか」
「日本人は基本的に無宗教ではないのか」
「日本には20万以上の神社仏閣があるとか。コンビニの数倍であり、無宗教どころか、宗教大国ではないか」
「あいかわらず、各地では祭りが盛んである。祭り好きということは、実際は、やはり日本人は宗教好きなのか」
天皇制というのは一種の宗教なのか」
靖国神社は本当に神道の宗教施設なのか」
オウム真理教は仏教を名乗っていたが、あれは仏教と呼べるのか」
「行政や大企業では信じられない不祥事が相次ぎ、少年たちは殺人、少女たちは売春に走る。どうして、日本人のモラルはここまで低下し、人心は荒廃してしまったのか。やはり、信仰心が欠如しているからか」
「武士道こそ日本人の本当の宗教であり、この精神をよみがえらせることがモラル復興につながるのではないか」
などなど、みなさんもよく耳にする質問ではないでしょうか。どれも一見して素朴な疑問のようで、実は日本人の宗教心の核心を鋭く突いています。


わたしは、これらの問いをザイルとし、日本宗教という不可思議な山を登っていきました。とりあえずは見晴らしのよい場所までたどり着いたとき、日本宗教とは三つの大きな山から成る連山であることに気づきました。
三つの山の名前は、神道と仏教と儒教です。
わたしは、さらに日本人の「こころ」の謎を解くため、『知ってビックリ! 日本三大宗教のご利益〜神道&仏教&儒教』(だいわ文庫)という本を書きました。
日本人の「こころ」は、明らかに神道と仏教と儒教という三大宗教によってデザインされています。三大宗教は融合して、武士道や心学や冠婚葬祭を生み出しました。


神道&仏教&儒教を学ぶ最高のテキスト


では、三大宗教それぞれの最高のテキストを紹介したいと思います。神道は、『神道とは何か』鎌田東二著(PHP新書)。仏教は、『私だけの仏教』玄侑宗久著(講談社+α新書)。そして儒教は、『儒教とは何か』加地伸行著(中公新書)。いずれも、コンパクトな新書本です。
もちろん、それぞれの宗教を本格的に勉強しようと思えば、参考書は無限にあります。しかし、この3冊は初心者にもわかりやすく書かれた極上の入門書だと思います。わたしも、この3冊で基本を勉強させていただきました。そして、『知ってビックリ!日本三大宗教のご利益〜神道&仏教&儒教』(だいわ文庫)を書きました。


わたしは、自分の「こころ」の中に三大宗教が根づいていることを感じます。日本文化のすばらしさは、さまざまな異なる存在を結び、習合していく寛容性にあります。それは、和え物文化であり、チャンプルー文化であり、ハイブリッド文化です。かつて、ノーベル文学賞を受賞した記念講演のタイトルを、川端康成は「美しい日本の私」とし、大江健三郎氏は「あいまいな日本の私」としました。どちらも、日本のある側面を的確にとらえていると言えます。
たしかに日本とは美しく、あいまいな国です。しかし、わたしならば「混ざり合った日本の私」と表現したいと思います。衝突するのではなく、混ざり合っているのです。無宗教ではなく、自由宗教なのです。わたしは、「混ざり合った日本の私」であることに心から誇りを抱いています。


2010年3月15日 一条真也