『アンダーグラウンド』

一条真也です。

島田裕巳著『オウム』を再読したところ、「村上春樹オウム事件」として一章が割かれていたことを思い出しました。
そこで、3月20日の今日は、オウム関連の本を部分的に再読することに決めました。
オウム記念日といっては不謹慎かもしれません。
まあ、こんな日があってもいいでしょう。


今や日本を代表する作家というより、世界的な作家となった村上春樹氏。
彼は、「1995年3月20日の朝、東京の地下でいったい何が起こったのか」「地下鉄サリン事件を境にして日本人はどこに向かおうとしているのか」を追求して、じつに62人もの関係者にインタビューを重ねて事件の真相に迫った本を書き上げました。
それが『アンダーグラウンド』(講談社文庫)です。
まず、800ページ近い分厚さに圧倒されます。


                    「祈り」とは何か



「はじめに」で、著者は、1995年3月20日、月曜日の朝を「まず想像していただきたい」と読者に呼びかけ、次のように語ります。
「気持ちよく晴れ上がった初春の朝だ。まだ風は冷たく、道を行く人々はみんなコートを着ている。昨日は日曜日、明日は春分の日でおやすみーーつまり連休の谷間だ。あるいはあなたは『できたら今日ぐらいは休みたかったな』と考えているかもしれない。でも残念ながらいろんな事情で、あなたは休みをとることはできなかった。
だからあなたはいつもの時間に目を覚まし、顔を洗い、朝食をとり、洋服を着て駅に向かう。そしていつものように混んだ電車に乗って会社に行く。それは何の変哲もない、いつもどおりの朝だった。見分けのつかない、人生の中のただの一日だった。
変装した五人の男たちが、グラインダーで尖らせた傘の先を、奇妙な液体の入ったビニールパックに突き立てるまでは・・・。」
本当に、15年前の3月20日の朝を生きているような感覚にとらわれますね。
さすがは、超一流の作家です。


その筆力には感服しますけれども、それよりも、62人もの人々のもとに出向いていって自らインタビューを続けていった行為には感動を覚えます。
ノーベル文学賞の最有力候補ともされ、当時すでに日本で最も有名な作家の一人であった村上春樹がJRで千葉までインタビューに出かけてゆくのです。
そこで一日、サリン事件の被害者の言葉にひたすら耳を傾けます。
そして、東京に戻ってから自分自身でインタビュー原稿をまとめるのです。
同じ姓を持ち、一時は村上春樹氏のライバルと目された作家がいます。
その彼がろくな小説も書かず、経済番組のホストとして、価格破壊が売り物のベンチャー企業の経営者たちにお世辞を言いながら、付け刃の経済知識をひけらかしています。
そんな堕落した作家に比べて、村上春樹氏には作家としての純粋さ、真摯さを強く感じてしまいます。
アンダーグラウンド』での途方もないインタビュー行為を知ってから、わたしは「この人の語る言葉は信じられる」と心の底から確信しました。


62人の人々が語る体験談は、ここには紹介しきれないほどの重みを持っています。
ぜひ、まだ読んでおられない方がいれば、お読み下さい。
きっと、人生というものを見つめ直す契機になるはずです。
村上春樹著『カンガルー日和』(講談社文庫)には、「4月のある晴れた日に100パーセントの女の子に出会うことについて」という素敵なショート・ストーリーが出てきます。
わたしの大好きな、とてもロマンティックな文章です。
4月のある晴れた日に100パーセントの女の子に出会うかもしれません。
しかし、3月のある晴れた日にサリン入りの袋を持った変装した男たちに出会うかもしれないのです。それが人生なのです。


地下鉄サリン事件の被害者の中には、亡くなった方をはじめ、その後も入院されたまま意識が戻らない方もいました。
村上春樹氏は、取材を通じて出会ったすべての人々が、これから末永く健康で、実り豊かな人生を歩んでほしいと祈ったそうです。そして、最後に次のように書いています。
「私が祈ることがどのような効力を持ちうるのか、正直に言ってわからない。少しくらいは効力を持つだろう、と言い切るほどの自信もない。結局のところ、私は数多くの個人的欠陥を抱えた一人の作家に過ぎないのだから。でもそのような私のつたない非力な祈りが、少しでも受け入れられる隙間がこの世界のどこかにーーいわば見落とされたようなかっこうでーーあるなら、私は強く祈りたいと思う。
『私があなたによって与えられたものを、あなたのもとにそのまま送り届けることができれば』と。」

作家の祈りは被害者たちの「こころ」に届いたでしょうか。
そして、「祈り」とは何でしょうか。
わたしは、人は祈らなければならないと思っています。
祈りの対象は太陽でも神でも仏でもよい。
人が不可知な力について感じるようになれば、人生そのものに必ず大きな展開がもたらされてくるものだと信じています。
100パーセントの女の子に出会うか、サリン入りの袋を持った変装した男たちに出会うか、不可知な人生を前にしたとき、人にできることは祈ることだけかもしれません。


2010年3月20日 一条真也