『祖先崇拝のシンボリズム』

 一条真也です。

東京に向かうスターフライヤーの中で読んだ2冊の本のうち、もう1冊は、『祖先崇拝のシンボリズム』オームス・ヘルマン著(弘文堂)です。
1987年に、「シリーズ・にっぽん草子」の1冊として刊行された本です。
著者はベルギー生まれで、日本の徳川思想史を研究する社会宗教学者です。


                  日本人の「こころ」を照らし出す


「まえがき」の冒頭は、次のような書き出しではじまります。
「日本の祖先崇拝は、民族学者・社会学者・文化人類学者などによってかなりよく研究されてきた。しかしこれらの研究で、ともすれば忘れられがちなのは、祖先崇拝が、宗教的な現象だということである。すなわち単なる社会現象ではなく、同時に、それは、象徴に関わる文化システムであり、人々はある特別な認識(ある種の『信仰』)を通してこれと同化するのである」
そう、日本人にとって祖先崇拝は宗教以前に内面化されています。
著者によれば、それは社会現象でも宗教現象でもとらえられないシンボルの関わる文化のシステムであるというのです。
これは、先祖供養や家系図などを、日本人のための一種の「文化装置」であるとするわたしの考え方にも通じます。



古代より日本人は、先祖を「カミ」「ホトケ」と呼ぶほどに「ご先祖さま」を大切にしてきました。日本という国の歴史を通じて、何らかの形で日本人は祖先を祀ってきました。
それは、日本文化および日本人の「こころ」の一大特徴であると言えるでしょう。
日本人の「こころ」は、神道、仏教、儒教の三本柱によって成り立っているというのが、わたしの持論です。
本書で、ヘルマンは次のように述べます。
「周知のように祖先崇拝と仏教とは終始緊密な関係にあった。表面的には、祖先崇拝は仏教によって全く独占されてしまったようにも見える。しかし仏教と関係の薄い民間信仰にも祖先崇拝に関わる習慣が存在している。恐山その他で行なわれる口寄せがその一例である。また民間信仰神道の深い結び付きを考えれば、ご先祖さまを祭ることはおそらく神道とも無関係ではないであろう。祖先崇拝は、特定の『宗教』を越えたものとして普遍的に存在していた。事実、日本のあらゆる宗教は、――仏教、神道民間信仰はもちろん、キリスト教及び儒教までもが、皆祖先崇拝をともかく考慮に入れ――それに対する自分の立場を決めなければならなかったのである」



仏式葬儀の中には、実は神道儒教も入り込んでいます。
なお、日本人の先祖供養の代名詞ともなっている「お盆」のルーツもじつは仏教ではありません。日本固有の「先祖祭り」がもとになっており、そのルーツは神道なのです。
「先祖祭り」は、わが国の民間信仰の根幹をなしています。
氏神信仰などはその典型といえますね。
祭りの対象は先祖代々の霊すなわち祖霊です。
通常は33年の最終年忌をトムライアゲ・トイアゲといって、葉付塔婆やうれつき塔婆という塔婆を立てます。
これを境に死者は死穢から清まり、先祖や神になるといいます。
最終年忌がすむと、位牌を流したり、墓石を倒したりする地方もあります。
ちょうど一世代たつと、死霊は個性を失って、祖霊という群霊体に融合し、子孫や郷土を守る先祖として祀られるわけですね。
ドラマティックな「先祖」の誕生です!
今はやりのスピリチュアル用語を使えば、ここでいう「死霊」とは「ソウル」、祖霊という群霊体は「グループ・ソウル」ということになるでしょうか。



ここで気づくのは、これまで宜保愛子細木数子江原啓之といった人々がテレビをはじめとしたメディアを騒がせ、「霊視」とか「占星術」とか「スピリチュアル」とか多様な表現を使ってきました。
でも、彼らのメッセージの根本はいずれも「先祖を大切にしなさい」ということでした。
日本人にとっての最大の信仰の対象とは「先祖」に他ならないことをメディアの申し子である彼らは熟知していたように思います。
まさに、伝統宗教から新興宗教新宗教、そしてスピリチュアルまで、日本人の精神世界における最大のコンセプトとは「先祖供養」なのだと、わたしは思います。


2010年5月12日 一条真也