法事と墓参り

一条真也です。

早朝、父と弟と一緒に秋葉原駅から特急に乗り、千葉県の佐貫駅まで行きました。
そこから迎えに来てくれた本家の長男さんの車に乗り込み、富津市に向かいました。
富津はわが一族の出自の地であり、そこに菩提寺があります。
真言宗東光院というお寺です。


                    わが家の菩提寺


今日は、わたしの祖母の三十三回忌と伯父の十三回忌なのです。
久しぶりに30名を越える親族が集まりました。
なつかしい方々との再会に、さまざまな思い出がよみがえります。
「この人たちは、みんな自分の親戚なのだ」と思うと、家族がいっぺんに増えたようで、ものすごく心強い気分になりました。
みんなで焼香し、みんなで「般若心経」を唱えました。
昨日お会いした金澤翔子さんの書かれた「般若心経」が心に浮かんできました。
80になる父の姉、つまり伯母も来ていましたが、焼香のとき、泣いていました。
33年前に亡くなった母親、13前に亡くなった兄のことを思い出して泣いているのかなと思いましたが、法事の後のご住職による法話で納得がいきました。
ご住職は、三十三回忌でひとまず故人の供養には区切りがつき、故人の霊は宇宙に還ってゆくと言われました。昔から、親の三十三回忌に立ち会えた人は、自分がそれだけ長生きしたということに感謝してきたとのこと。
その法話を聞いて、伯母の涙の秘密がわかったような気がしました。
ご住職は大変立派な方で、いつも法話も心に染みます。
今日は、わたしの顔を見るなり、「新聞で知って、あなたの書かれた『葬式は必要!』を注文したところなのですよ」と言って下さいました。
子どもの頃から尊敬しているご住職でしたので、とても嬉しかったです。


                     法事のようす


法事の後は、みんなで墓参りをしました。
みんなで線香をあげて、みんなで饅頭を食べました。
それから、近所の寿司屋さんに場所を移し、法宴が行われました。
父が献杯の音頭を取りましたが、「このような法事の場がなければ、親族が集まる機会がなくなる。これからも、一族が集まれる機会を多く持ちたいものです」と挨拶しました。
料理をつつき、酒を注ぎ合いながら、お互いに挨拶しました。
親戚のみんなと近況報告をしたり、世間話をしたりしました。
とてもリラックスできました。やはり、血縁というものは良いものです。


                     小雨の中の墓参り


親族たちと一緒にいて、わたしは祖母のこと、伯父のこと、そして遠い先祖たちのことを考えました。わたしたちは、先祖、そして子孫という連続性の中で生きている存在です。遠い過去の先祖、遠い未来の子孫、その大きな河の流れの「あいだ」に漂うもの、それが現在のわたしたちに他なりません。
その流れを意識したとき、何かの行動に取り掛かる際、またその行動によって自分の良心がとがめるような場合、わたしたちは次のように考えるのです。
「こんなことをすれば、ご先祖様に対して恥ずかしい」
「これをやってしまったら、子孫が困るかもしれない」
こういった先祖や子孫に対する「恥」や「責任」の意識が日本人の心の中にずっと生き続けてきました。それらの意識は「家」という一字に集約されるでしょう。
かつての日本人には「家」の意識があったのです。
「家」の意識などというと、良いイメージを抱く人は少ないかもしれません。
戦後の日本人は、「家」から「個人」への道程をひたすら歩んできました。
わたしのように冠婚葬祭を業としている者から見ると、じつによく変化がわかります。
結婚式では、「○○家・△△家結婚披露宴」として家同士の縁組みが謳われていたものが、今ではすっかり個人同士の結びつきになっています。
葬儀でも同様で、次第に家が出す葬儀から個人葬の色合いが強まり、現在ではそのまま火葬場に直行する直葬、中には誰も参列者がいないという孤独葬という気の毒なケースも増えてきました。



たしかに戦前の家父長制に代表される「家」のシステムは、日本人の自由を著しく拘束してきたと思います。なにしろ「家」の意向に反すれば、好きな職業を選べず、好きな相手と結婚できないという非人間的な側面もあったわけですから。
その意味で、戦後の日本人が「自由」化、「個人」化してきたことは悪いことではないと思います。でも、「個人」化が行き過ぎたあまり、とても大事なものを失ってしまったのではないでしょうか。それが、先祖や子孫への「まなざし」ではないか。
激増する凶悪犯罪や自殺にも、その「まなざし」の喪失が影響しているのではないか。
たとえば、殺人などの凶悪犯罪に手を染める場合には「先祖に申し訳ない」という意識が働き、自ら命を絶つ場合には「自殺すれば子孫が迷惑するのでは」という想像力が働くのではないでしょうか。
それらが失われた結果、どうなったか。
残ったのは自分という「個」の意識、すなわち「自我」だけになってしまったのです。
倫理的に最も悪質であるとされる「親殺し」や「子殺し」が現代日本で増加している背景にも、「自我」の肥大化があるように思えてなりません。
今日は、祖母と伯父の法事と墓参りのおかげで、いろいろなことを考えさせられました。


2010年6月27日 一条真也



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