死者を思い出す季節

一条真也です。

今日は、8月12日です。
520人の命が奪われた日本航空のジャンボ機事故から25年を迎えました。


                  8月12日付「読売新聞」朝刊より


考えてみれば、6日の広島原爆記念日、9日の長崎原爆記念日、15日の終戦記念日の間に12日が入ります。
6日、9日、12日、15日と、3日置きに日本人にとって意味のある日が訪れるのです。
そして、それはまさにお盆の時期と重なります。
8月の前半は、日本人にとって、死者を思い出す季節なのですね。


                  8月12日付「読売新聞」朝刊より


墜落する前の日航機内で、谷口正勝さんという方が座席に備え付けの紙袋に「まち子 子供よろしく」と遺書を書きました。
谷口さんは当時40歳でしたが、今朝の「読売新聞」によると、残された家族が今年も慰霊登山をされたそうです。
事故当時小学3年だった次男の誠さんは34歳になりました。誠さんは自分の家族と母親の真知子さん(62)を伴い、「御巣鷹の尾根」に登ったのです。
昨年の夏に生まれたばかりの長女を抱いて、「じーじ、来たよ」と亡き父の墓標に呼びかけたそうです。
「読売」の記事によれば、登山道は整備されましたが、現場までは急峻な山道が続くそうです。遺族の方々が高齢化していく中で、真知子さんも「いつまで慰霊登山を続けられるのか」と思っておられるとか。
しかし、「だからこそ、私たち家族の中だけでも、バトンをつないでいきたいんです」と、真知子さんは語られています。



8月12日に御巣鷹の尾根を訪れた遺族数も「三回忌」の1987年には2500人以上でしたが、「七回忌」の91年は約2000人、「十三回忌」の97年は約1200人、「十七回忌」の2001年は約700人で、今年は100人ちょっとだったそうです。
これから、この数は減る一方でしょうが、新たに生まれた孫や子孫が慰霊登山に加わり、いつまでも亡くなった方々を追悼してあげていただきたいと思います。



今日は、とても嬉しいことがありました。
ブログ「小倉に落ちるはずの原爆」に紹介したように、8日の新聞各紙に「鎮魂〜小倉に落ちるはずだった原爆」という意見広告を掲載しました。
その新聞広告を見た方々から多くのお便りが届いたのです。
北九州市若松区青葉台のS.Sさんからは、次のようなお便りをいただきました。
「8/8朝日新聞にて貴社の広告に目がとまりました。鎮魂・・・平和の願いを込め、長崎に祈りを、社長のメッセージの中で、小倉が原爆投下の第一目標だったこと、8/8八幡の大空襲の影響で小倉が原爆難をのがれ、このことが長崎への原爆投下につながった・・・この歴史的事実を北九州市民は、はたして何人知っているのでしょうか?戦争の悲惨さを風化させないために、このメッセージはもっと多く読んで欲しいと思いました。夜空に浮かぶ月を見上げて手を合わせて、なくなられた方々へのごめいふくを祈り続けたいと思います。久しぶりに感動する広告を見ました。ありがとうございました。」


豊前市森久のM.Sさんからは、次のようなお便りをいただきました。
「子供の頃から長崎原爆は小倉に落とされるはずだったと習ってきました。実家は小倉・・・今年実母が亡くなりましたが、その母は子供の頃八幡に住み、疎開で鹿児島へ。結婚を機に北九州へ。今の自分が生きていること、シアワセに暮らせている運命は“生かされている”色々な“縁”があってこそ・・・とつくづく思います。母から“生き様”“死に様”を学び、自分自身の人生を振り返りながら、今後の生きていく指針を考えていきたいと思います・・・」



北九州市八幡西区光貞台のE.Kさんからは、次のようなお便りをいただきました。
「8/8毎日新聞の貴社の社長の『鎮魂』を読み、感激しました。特に『もし、この原爆が小倉に〜存在しなかったかも〜』には、今さらながら戦争のむごさが感じられました。今後も、このような広告づくりをされることをお祈り致します。」
じつは、昨年も同じ広告を打ったのですが、小倉に住むという匿名の方から「小倉に原爆が落ちていたら、小倉の人間がこの世に存在しなかったかもしれない」という表現が非常に不愉快であるという抗議の電話がわが社に来たそうです。
わたしは、たいへん驚くとともに、「こういう考え方をする人も世の中にはいるのだなあ」と悲しい気持ちになったことを記憶しています。
でも、今年も「鎮魂」広告を続けて良かったと心から思います。
もちろん、来年以降もずっと続けてゆくつもりです。
広島で、長崎で、そして御巣鷹山で、それぞれ亡くなられた方々の御冥福を祈り続けていきたいです。死者を忘れて、生者の幸福など絶対にないのですから。


2010年8月12日 一条真也