無縁社会の秘密!

一条真也です。

今日は、早朝から松柏園ホテルの神殿で「月次祭」が行われ、その後、「平成心学塾」を開催しました。まずは、佐久間進サンレー会長が話をしました。


                「後期高齢者」から「光輝好齢者」へ


佐久間会長は、今月で後期高齢者になります。しかし、自分は「高貴高齢者」、さらには「光輝好齢者」になりたいと述べていました。
また、老いには「老入」「老春」「老楽」「老遊」「老童」「老成」といった段階があり、高齢者になったら何事も陽にとらえる「陽転思考」が必要であることを説いていました。
まさに、わたしの「人は老いるほど豊かになる」という考え方を、父が自らの人生をもって実証してくれていると感じました。


                 「無縁社会」の50年前をさぐる


その後、わたしが話をしました。ここのところ平成心学塾では「無縁社会」の話をすることが多いのですが、今日は「無縁社会」が到来した原因について話しました。
ブログ「葬儀めぐる議論」で紹介したように、9月5日付「日本経済新聞」朝刊で民俗学者の新谷尚紀氏は、時代のキーワードに「無縁化」をあげ、次のように述べています。
「これらの葬儀をめぐる議論の歴史的な遠因は、1950年代半ばから70年代半ばにかけての高度経済成長にある。技術革新や経済の変化はおよそ20年の時差をもって社会の変化や意識の変化となって現れる。90年頃のキーワードの一つは『個人化』であったが、あれから20年のいま、キーワードは『無縁化』である」



「無縁化」がキーワードであることに異論はありませんが、技術革新や経済の変化が社会の変化や意識の変化となる時差については、わたしは違う意見を持っています。
偉大な社会生態学者でもあったピーター・ドラッカーは、その時差を約「50年」、つまり半世紀としています。新谷氏の「20年」説より30年長い。
ドラッカーによれば、西洋の歴史では、数百年に一度、際立った転換が行なわれるといいます。そして社会は、数十年かけて、次の新しい時代のために身を整えます。
世界観を変え、価値観を変えます。社会構造を変え、政治構造を変えます。技術や芸術を変え、機関を変えます。やがて50年後には、新しい世界が生まれるというのです。
たとえば、1455年のグーテンベルクによる植字印刷や印刷本の発明の約半世紀後にはルターによる宗教改革が起こりました。
また、1766年にアメリカが独立し、ジェームズ・ワットが蒸気機関を完成し、アダム・スミスが『国富論』を書いた半世紀後には何が起こったか。
そう、産業革命が起こり、資本主義と共産主義が現れたのです。
さらには、世界初のコンピューターであるENIACが完成したのは1946年ですが、その50年後、インターネットが世界中に普及しました。



このように、大いなる変革の約50年後に社会が変化するというのが「ドラッカーの法則」です。ドラッカーは「西洋の歴史」に限定していますが、わたしは「日本の歴史」にも適用できるのではないかと考えています。このドラッカーの法則によれば、「いまから50年前には何が起こったか」を知ることが大切になります。
現代日本社会の「無縁化」は、明らかに大きな社会的変化と言えます。
今年、2010年は多くの意味で、「無縁社会」元年であったと思います。
1月にはNHKスペシャル「無縁社会〜“無縁死”3万2000人の衝撃」が放映され、大反響を呼びました。また同月に、島田裕巳著『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)が刊行されてベストセラーとなっています。
夏には、大阪のマンションで幼い2人の幼児が置き去り死するという事件があり、さらには東京で100歳以上で健在のはずの高齢者が白骨遺体で発見されるという衝撃的な事件を幕開けに、全国で「消えた高齢者」が問題になっています。
まさに、「無縁社会」としての正体を現しはじめた現代日本
こんな日本になった50年前には、何があったのでしょうか?「無縁社会」の秘密とは?



そのことを、9月5日の日経を読んで以来、ずっと考えていました。
ふと、会社の社長室の机の上を見ると、たくさんの封書が置いてあります。
それらの封書は、同業である全国の冠婚葬祭互助会の各社から届いたものでした。
開封して中を見ると、「50周年のごあいさつ」という内容の文面でした。
全国の有力互助会が昨年から今年、さらには来年にかけて50周年を続々と迎えているのです。ちなみに、わが社は来年で45周年ですが。
「そうか、あの互助会さんも今年で50周年かあ・・・」とつぶやいた直後、わたしは脳の中に落雷のような感覚をおぼえ、思わず、「わかった!」と叫びました。
まるで、牛次郎・作&ビッグ錠・画の料理マンガの古典的名作『包丁人味平』で、画期的な新作料理のアイデアが主人公の塩見味平の脳に閃いた時のように。
ちなみに、ビッグ錠氏には全互協刊行の冠婚葬祭マンガを描いていただきました。


              『包丁人味平』第9巻(集英社文庫)より


なんと、今から50年前には、日本各地に冠婚葬祭互助会が誕生していたのです!
冠婚葬祭互助会とは、その名の通りに「相互扶助」をコンセプトとした会員制組織です。
終戦直後の1948年に横須賀市で生まれ、全国に広まっていきました。
その歴史は半世紀を越えたほどですが、実はきわめて日本的文化に根ざした「結」や「講」にルーツはさかのぼります。
「結」は、奈良時代からみられる共同労働の時代的形態で、特に農村に多くみられ、地域によっては今日でもその形態を保っているところがあります。
一方、「講」は、「無尽講」や「頼母子講」のように経済的「講」集団を構成し、それらの人々が相寄って少しずつ「金子」や「穀物」を出し合い、これを講中の困窮者に融通し合うことをその源流としています。
このような「結」と「講」の二つの特徴を合体させ、近代の事業として確立させたものこそ、冠婚葬祭互助会というシステムなのです。
日本的伝統と風習文化を継承し、「結」と「講」の相互扶助システムが人生の二大セレモニーである結婚式と葬儀に導入され、互助会は飛躍的に発展してきました。



わたしは、いま、冠婚葬祭互助会の全国団体である(社)全日本冠婚葬祭互助協会(全互協)の理事であり、広報・渉外委員長です。
無縁社会」が叫ばれ、生涯未婚に孤独死や無縁死が問題となる中、冠婚葬祭互助会の持つ社会的使命はますます大きくなると思っていました。しかし、「無縁社会」の到来に、冠婚葬祭互助会そのものが影響を与えている可能性があるのかもしれません。
なんとも皮肉な衝撃的な発見でした。
もちろん、「日本人の血縁や地縁をメチャクチャにしてやれ!」と企んで互助会が誕生したわけではありません。互助会は、そのような悪の陰謀団体ではありません。
敗戦で今日食べる米にも困る中で、わが子の結婚式や老いた親の葬儀を安い価格で出すことができるという「安心」を提供するといった高い志が互助会にはありました。
しかし、おそらく互助会は便利すぎたのです。
昔は、結婚式にしろ葬儀にしろ親族や町内の人々にとって大変な仕事でした。
みんなで協力し合わなければ、とても冠婚葬祭というものは手に負えなかったのです。
それが安い掛け金で互助会に入ってさえいれば、後は何もしなくても大丈夫という時代になりました。そのことが結果として血縁や地縁の希薄化を招いてきたという可能性は否定できません。



また、現代日本人のほとんどは葬儀をセレモニーホール、つまり葬祭会館で行います。
この葬祭会館には小規模なものから大規模なものまであります。
しかし、いわゆる「総合葬祭会館」と呼ばれるような大型施設は、1978年にオープンしたわが社の小倉紫雲閣が最初だとされています。
その後、全国でも最も高齢化が進行した北九州市をはじめ、各地に猛烈な勢いでセレモニーホールが建設され、今ではその数は全国で6000を超えています。
このセレモニーホールの存在が、また日本人の葬儀およびコミュニティに重大な変化を与えたと多くの宗教学の研究者が見ています。
宗教学者中沢新一氏なども、そういった見方をする一人です。
映画「おくりびと」が公開されたとき、コピーライターの糸井重里氏による「ほぼ日刊イトイ新聞」において「死を想う」という座談会が連載されました。
中沢新一本木雅弘糸井重里の三氏による興味深い座談会でした。
そこで、中沢氏は以下のような注目すべき発言をしているのです。
「だいたい、日本のお葬式というのは20年くらい前から、変わりはじめたんですよ」
「まずはね、葬儀屋さん業界がみずから、ドラスティックな変革をはじめたんです」
「というのも、日本人は長いあいだ、人の死にまつわる『けがれ』というものをお坊さんに任せっきりにしてきた。お坊さんに『丸投げ』にして、思考停止しちゃってたんです」
「むかしのお坊さんは、自分たちが『おくりびと』であるという意識をつよく持っていたんですよね。その『けがれ』を引き受けるという役目をしっかりつとめてきたんですけど、時代がくだるにつれて、それも、じょじょに風化してきてしまった」
中沢新一氏の発言は、風のメモワール104「おくりびと」で詳しく紹介されていますので、よろしければクリックしてお読み下さい。
なお、この記事には拙著『魂をデザインする〜葬儀とは何か』(国書刊行会)についても言及されています。「もう15年以上前の著書だけれど、おそらく今読んでもそれなりに面白いのではないかと思っている」とのコメントが書かれています。
いずれにせよ、この中沢発言は重要な指摘ですし、おそらくは正しいのでしょう。


                      葬儀とは何か


冠婚葬祭互助会が日本人の血縁や地縁を希薄化させ、セレモニーホールが仏教者から「こちら側」へ葬儀の主導権を奪ってしまった。
もし、そうだとしたら、わたしたち互助会には大きな責任があります。
ましてや、わが社の佐久間会長は(社)全互協の初代会長であり、互助会事業を法制化して業界発展の基礎を築いています。
さらには、日本で初めて大型の総合葬祭会館を作ったのも、わが社です。
わが社には、「無縁社会」を「有縁社会」に変える、いや戻すという責任があることに気づきました。なぜ、わが社が地域住民の絆をつくる「隣人祭り」の開催をサポートしているのか、その意味がやっとわかりました。わが社には、さまざまな「縁」にあふれた日本社会を再生させる使命と責任があるのです。
今日の平成心学塾で、「無縁社会の秘密」と「サンレーの責任」について課長以上の社員に話したところ、みんな最初は仰天するとともに、大いに納得し、「隣人祭り」にかける新たな意気込みを見せてくれました。
もう迷いはありません。自分たちのしなければならないこと、するべきことが明確になりました。あとは、実行あるのみです。
父をはじめとした後期高齢者の方々を「光輝好齢者」にするためにも、そして、すべての日本人を幸せにするためにも、わたしはやります。おうさ、俺がやらねば誰がやる?!



(以下の文章は、本記事のUP後に美学者の秋丸知貴氏から頂戴したメールの文面です。秋丸氏の了解を得て、以下に紹介させていただきます)
無縁社会の秘密!」を読ませて頂いて、一条先生の勇気と使命感に強い感銘を受けております。私も、一条先生のご分析は、恐らく正しいと思います。
ただ、私なりに今回の記事について一つ付け加えさせて頂きたいのは、確かに冠婚葬祭互助会が「血縁や地縁の希薄化」を招いてきたという可能性は否定できないとしても、しかし、戦後に冠婚葬祭互助会が成立したのは、人々がそれを求めたという時代的・社会的背景があり(そうでなければ商業として成立しえないはず)、もし冠婚葬祭互助会が成立していなければ、今よりもさらに一層「血縁や地縁の希薄化」は深刻だっただろうという問題です。
つまり、敗戦から高度経済成長にかけての価値観の混乱や、都市への人口移動、共同体の衰退等の中で、日本人のメンタリティーに適う、「結」と「講」の二つの特徴を合体させ、何とか人々を共同体として結び付けつつ、その運営を近代的事業として確立する必要から、冠婚葬祭互助会は誕生したと思うのです。
多少後付けになりますが、先日、私が一条先生にお会いした時に、「隣人祭り」ムーブメントが必ず起こると申し上げましたのは、戦後に「冠婚葬祭互助会」が人々に求められたように、現在は「隣人祭り」こそが人々に求められるだろうと感じたからです。
私などが申し上げるのも誠に恐縮ですが、恐らく現在、冠婚葬祭互助会が共同体の維持復興事業に取り組まれるのは、その成立背景と社会的使命において非常に必然的であり、そのフロンティアとして、貴社サンレーが「隣人祭り」を推進されるのは、極めて正当的であると思っています。(以上、秋丸知貴氏のメールより)


このコメントの最後には、「人々を幸せにされたいという一条先生の志を、私は心より応援しております」と書かれていました。
わたしは、こんな心ある同志を持って、本当に幸せです。ありがとう、秋丸さん!


2010年9月18日 一条真也