「孤族の国」

一条真也です。

昨夜は忘年会の後も二次会、三次会と飲み歩き、大いに酔いました。
二日酔いで目覚め、「朝日新聞」を開いたら、新しい大型連載がスタートしていました。
「孤族の国」というタイトルで、企画の趣旨はNHKの「無縁社会」とほぼ同じです。
「孤族」という言葉は、なんだか渡辺淳一氏が提唱した「孤舟族」みたいですね。


               12月26日付「朝日新聞」朝刊


特集の開始に際して、冒頭に宣言文のようなものが掲載されています。
ちょっと長くなりますが、重要な部分ですので以下に引用します。
なお、改行の際の一字下げはしていませんので、ご了承下さい。



社会のかたちが変わってきている。恐るべき勢いで。
家族というとき、思い浮かべるのは、どんな姿だろう。父親、母親に子ども2人の『標準世帯』か、それとも夫婦だけの世帯だろうか。今、それに迫るほど急増しているのが、たった1人の世帯だ。「普通の家族」という表現が、成り立たない時代を私たちは生きている。
外食産業、コンビニ業界、インターネットなどにより、昔と比べて一人暮らしは、はるかにたやすくなった。個人を抑え込むような旧来の人間関係から自由になって、生き方を自由に選び、個を生かすことのできる地平が広がる。
だが、その一方で、単身生活には見えにくい落とし穴が待ち受ける。高齢になったら、病気になったら、職を失ったら、という孤立のわなが。血縁や地縁という最後のセーフティネット、安全網のない生活は、時にもろい。
単身世帯の急増と同時に、日本は超高齢化と多死の時代を迎える。それに格差、貧困が加わり、人々の「生」のあり方は、かつてないほど揺れ動いている。たとえ、家族がいたとしても、孤立は忍び寄る。
個を求め、孤に向き合う。そんな私たちのことを「孤族」と呼びたい。家族から、「孤族」へ、新しい生き方と社会の仕組みを求めてさまよう、この国。
「孤族」の時代が始まる。
(「朝日新聞」2010年12月26日・朝刊より)



この文章を、わたしは何度も読みました。
まず、これだけ「無縁社会」と同じ内容であるにもかかわらず、「無縁」という言葉を一度も使わなかったのはお見事です。さすがに天下の「朝日新聞」だけあって、現代の日本社会の問題点を無駄なくまとめた名文ではないでしょうか。わたしも、一部の日本人の「個性」や「自立」のはき違えが、「孤立」につながっていったと思います。
日本が超高齢化社会と多死の時代を迎えることは以前からわかっていましたし、わたしも今から20年前に『ロマンティック・デス〜月と死のセレモニー』(国書刊行会)を書いた頃から発言を重ねてきました。しかし、「超高齢化」と「多死」に加えて、「格差」と「貧困」というファクターがここまで大きくなってくるとは予想外でした。
また、この文章で、人間関係の希薄化と外食産業、コンビニ業界、インターネットを関連づけている点を興味深く感じました。
コンビニといえば、じつは日本最初のコンビニエンスストアであるセブンイレブン豊洲店(東京)がオープンしたのは1974年ですが、じつはその年に日本最初の大型セレモニーホールもオープンしています。わが社の小倉紫雲閣です。
コンビニとセレモニーホールの幕開けが同時だったというのは、現代の日本社会における問題点のルーツを探る上で非常に興味深いと思っています。
なぜなら、コンビニが「孤族」のシンボルとなる場所なら、セレモニーホールは「家族」や「隣人」のシンボルとなる場所だからです。



人間には、家族や親族の「血縁」をはじめ、地域の縁である「地縁」、学校や同窓生の縁である「学縁」、職場の縁である「職縁」、趣味の縁である「好縁」、信仰やボランティアなどの縁である「道縁」といったさまざまな縁があります。
わたしは思うのですが、その中でも「地縁」こそは究極の縁ではないでしょうか。
なぜなら、ある人の血縁が絶えてしまうことは多々あります。
かつての東京大空襲の直後なども、天涯孤独となった人々がたくさんいたそうです。
また、「学縁」「職縁」「好縁」「道縁」がない人というのも、じゅうぶん想定できます。
しかし、「地縁」がまったくない人というのは基本的に存在しません。
なぜなら、人間は生きている限り、地上のどこかに住まなければいけないからです。
地上に住んでいない人というのは、いわゆる「幽霊」だからです。
そして、どこかに住んでいれば、必ず隣人というものは存在するからです。
それこそ、「地球最後の人類」にでもならない限りは。



今後、独居老人をはじめ孤立した人々と地域とをつなぐ必要性があります。
隣人祭り」に代表される隣人交流イベントの重要性も高まるばかりです。
わが社は、NPO法人を通じて、隣人祭り日本支部に届け出ているオーソドックスな隣人祭りのほか、日本の年中行事などを取り入れた「隣人むすび祭り」をあわせれば、北九州市だけで年間300回、全国では470回ほど開いているでしょうか。
おそらく、わが社は日本でもっとも、いや世界でも5本の指に入るほど多くの隣人交流イベントを開催している組織ではないかと思います。
わが社の本業は冠婚葬祭業です。わたしは最近、隣人祭りと冠婚葬祭は似ていると思えてなりません。まず、日常的な隣人祭りと非日常的な冠婚葬祭の違いはありますが、どちらも人間関係を良くするためのものです。
冠婚葬祭には家族を結びつける接着剤のような役割があります。
もともと、一人の人間が亡くなったことによって開催される葬儀は、血縁や地縁やその他もろもろの縁を結ぶ人々が集まる人間関係のターミナルとなります。



「朝日」の記事には、親の葬儀にも出なかった男性が公園の駐車場に止めてあった軽自動車の中で孤独死していたと書かれていました。
親の葬儀というのは、孟子ヘーゲルも言ったように、人類普遍の最重要事です。
それにも出なかったということは、この孤独死した男性には、ある意味で「人間をやめよう」という気持ちがあったのかもしれません。自分の親の葬儀に出なかった人が孤独死したというエピソードは、すべてを象徴しているのではないでしょうか。
わたしは冠婚葬祭業者として、この方を責める気持ちなどまったくありません。
ただ、心から「お気の毒だ」と思うだけです。
よく、「人にはそれぞれの考え方や生き方があるのだから、他人のことを気の毒だなどと思ってはいけない」という文化人がいますね。
しかし、わたしは、この方を「気の毒」であると思います。
わたしの考え方や生き方において、この孤独死した男性を「気の毒」だと同情します。
そして、こういう人をこれ以上増やしてはならないと心の底から思います。



今年は「葬式は、要らない」という本もベストセラーになりました。「葬儀は人類の存在基盤」と考えるわたしは、『葬式は必要!』(双葉新書)という本を書きました。
葬儀には「ひきこもり」から人を救い出す力があります。
葬儀は、いかに悲しみのどん底にあろうとも、その人を人前に連れ出します。
引きこもろうとする強い力を、さらに強い力で引っ張りだすのです。
葬儀の席では、参列者に挨拶をしたり、お礼の言葉を述べなければなりません。
それが、残された人を「この世」に引き戻す大きな力となっているのです。
葬儀がなければ、愛する人を亡くした人々の間には深い悲しみと喪失感による「死の連鎖」が起こって、人類は滅亡してのではないかとさえ思います。
隣人祭りにおいても、人前に出るのが億劫になった高齢者の方々を地域の隣人たちに紹介することで、「ひきこもり」老人となって孤独死に至る悲劇を回避することができるのです。つまり、冠婚葬祭も隣人祭りも、引きこもろうとする人を太陽の光の下に連れ出すことではないでしょうか。



無縁社会」と同じく、「孤族」という言葉が生まれたことにより、それが現実化していくことが気がかりです。それらは、人間の心にいたずらに不安感を与える、反対に悪い意味での安心感を与える「呪い」の言葉になりかねません。
無縁社会」だ、「孤族」だと、世の人々を言葉で怖がらせるだけではダメです。
NHKも朝日新聞社も、「有縁社会」づくりや「家族」の再生に取り組んでいる実際の活動をもっと積極的に取材すべきではないでしょうか。
わたしたちは、「有縁社会」づくりや「家族」の再生に実際に取り組んでいます。
ぜひ、NHKも朝日新聞も、わが社が各地で手がけている隣人交流イベント、あるいは沖縄でお手伝いしている先祖供養などを取材していただきたい。
会社の宣伝のためなどではありません。もちろん、わたしの売名行為でもありません。
もし、そのように考えている人がいるとしたら、人を見損なわないでほしいですね。
サンレーという社名も、一条真也および佐久間庸和という名前も、一切出していただかなくて結構です。ぜひ、わたしたちが「血縁」と「地縁」の再生のために実践している活動だけを見ていただきたいと思います。



いま、「血縁や地縁に代わる新しい縁が必要」という言説が多いのが気になります。
そういうことを言う「識者」というのは、本当に「非常識者」なのだなあと痛感します。
ネットや趣味でつながる縁に注目していくことは大いに結構なことです。
でも、それらはけっして「血縁」や「地縁」に代わることはできません。
人間とは、どこまでも「血縁」と「地縁」の中で生きている存在なのです。
何よりも最優先すべきは、日本人における「血縁」と「地縁」の再生です。
くだんの宣言文には、「血縁や地縁という最後のセーフティネット、安全網のない生活は、時にもろい」と書かれています。
セーフティネットや安全網というのは破損した状態のままで放置しておいては絶対にいけません。どんなに修復が困難であろうとも、必ず修復しなければならないものです。
日本人を「孤族」にしないための考え方、そしてその具体的な方策については来年3月刊行予定の『隣人の時代〜有縁社会のつくり方』(三五館)に書きます。
たしかに、家族がいない人が増えてきています。
でも、家族に代わるべき存在は孤族ではなく、隣人であると確信します。
朝日の宣言文の最後には、「『孤族』の時代が始まる」と書かれています。
でも、始まるのは孤族の時代ではありません。
これから始まるのは、隣人の時代です。


2010年12月26日 一条真也