愛する人を亡くした人へ

一条真也です。

今日は「ホワイトデー」ですが、浮かれている場合ではありません。
毎日、非現実的なニュースが次々に飛び込んできます。
発表される死者の数も、どんどん増えていく一方です。
東日本大震災津波で壊滅的な被害を受けた宮城県内の死者数について、13日に県警は「万人単位になることは間違いない」との見通しを明らかにしました。


                  「読売新聞」3月14日朝刊


岩手県では、大槌町で町長を含めた1万人の所在が確認されていません。
今朝の「読売新聞」のトップを飾った写真は、建物の上に船が乗り上げているという衝撃的なものでした。わたしは、『旧約聖書』の「創世記」に出てくるノアの方舟アララト山の上に漂着した光景を連想しました。
しかし、この写真は「創世記」というよりも「黙示録」を想わせます。
じつは、わたしたちの業界の仲間である東北の某互助会ともまったく連絡がつきません。いま、その互助会の経営者や社員の方々の安否を確認しています。



昨日のブログに書いたように、今日からの東京出張は取りやめました。
しかし、今朝から早速、サンレー本社からさまざまな指示を出しました。
業界としては、災害支援協定にのっとった棺や霊柩車の派遣など。
会社としては、被災地にある業界の仲間への支援など。
また、義捐金の募集をスタートし、各新聞にお悔やみの広告を手配しました。
これほど多くの死者が出たのは、わたしが2001年に社長になってからは初めてです。


                  「読売新聞」3月14日朝刊


新聞を開くと、救えなかった娘と安置所で再会し、「ごめんね」と泣き叫ぶ母親の記事が掲載されていました。本当に、胸が痛みます。
この宮城県東松島市の母親以外にも、多くの人々が愛する人を失いました。
愛する人を亡くされた方々は、いま、この宇宙の中で一人ぼっちになってしまったような孤独感と絶望感を感じていることでしょう。
誰にも自分の姿は見えず、自分の声は聞こえない。亡くなった人と同じように、残された人の存在もこの世から消えてなくなったのでしょうか。



フランスには、「別れは小さな死」ということわざがあります。
愛する人を亡くすとは、死別ということです。愛する人の死は、その本人が死ぬだけでなく、あとに残された者にとっても、小さな死のような体験をもたらすと言われています。
もちろん、わたしたちの人生とは、何かを失うことの連続です。
わたしたちは、これまでにも多くの大切なものを失ってきました。
しかし、長い人生においても、一番苦しい試練とされるのが、自分自身の死に直面することであり、時分の愛する人を亡くすことなのです。



わたしは、冠婚葬祭の会社を経営しています。
本社はセレモニーホールも兼ねており、そこでは毎日多くの葬儀が行われています。
そのような場所にいるわけですから、わたしは毎日のように、多くの「愛する人を亡くした人」たちにお会いしています。 
その中には、涙が止まらない方や、気の毒なほど気落ちしている方、健康を害するくらいに悲しみにひたっている方もたくさんいます。
亡くなった人の後を追って自殺しかねないと心配してしまう方もいます。
愛する人」と一言でいっても、家族や恋人や親友など、いろいろあります。
わたしは、親御さんを亡くした人、御主人や奥さん、つまり配偶者を亡くした人、お子さんを亡くした人、そして恋人や友人や知人を亡くした人が、それぞれ違ったものを失い、違ったかたちの悲しみを抱えていることに気づきました。 
それらの人々は、いったい何を失ったのでしょうか。
それは、以下のようなことだと思います。



     親を亡くした人は、過去を失う。
     配偶者を亡くした人は、現在を失う。
     子を亡くした人は、未来を失う。
     恋人・友人・知人を亡くした人は、自分の一部を失う。




日本では、人が亡くなったときに「不幸があった」と人々が言い合います。
この言葉には、わたしは大きな違和感を感じてきました。
わたしたちは、みな、必ず死にます。死なない人間はいません。
いわば、わたしたちは「死」を未来として生きているわけです。
その未来が「不幸」であるということは、必ず敗北が待っている負け戦に出ていくようなものです。わたしたちの人生とは、最初から負け戦なのでしょうか。
どんな素晴らしい生き方をしても、どんなに幸福感を感じながら生きても、最後には不幸になるのでしょうか。
あの、あなたのかけがえのない愛する人は、不幸なまま、あなたの目の前から消えてしまったのでしょうか。
亡くなった人は「負け組み」で、生き残った人たちは「勝ち組」なのでしょうか。
わたしは、「死」を「不幸」とは絶対に呼びたくありません。
なぜなら、そう呼んだ瞬間、わたしは将来かならず不幸になるからです。
死は決して不幸な出来事ではありません。
愛する人が亡くなったことにも意味があり、あなたが残されたことにも意味があります。
これから、残された方々が深い悲しみを抱きつつも、亡くなられた人のぶんまで生きていくという気持ちになって下さることを願っています。
それは、何よりも、あなたの亡くした愛する人がもっとも願っていることだと思います。



      あの人のぶんまで生きて伝えたい愛する人を亡くした人へ (庸軒)




                  悲しみを癒す15通の手紙


2011年3月14日 一条真也