ビンラディン殺害に思う

一条真也です。

この連休中、ずっと、あることについて考えていました。
国際テロ組織「アルカイダ」の指導者オサマ・ビンラディン容疑者の殺害についてです。
アメリカにとって「テロとの戦い」の最大の標的が、ついに死亡したのです。


                  「朝日新聞」5月3日朝刊


本当は、ビンラディン殺害の第一報が入ったときに、すぐ感想をブログに書こうかと思っていました。5月2日のブログ「日本よ、中国よ」の最後にビンラディン殺害に触れて、ブログのタイトルも「日本よ、中国よ、アメリカよ」にしようかとも考えたのですが、それだと内容の趣旨が変わってしまうので断念したのです。
それと、オバマ大統領の発表に胡散臭いものを感じ、「この情報は、きっと二転三転する」と直感しました。ある程度、情報が落ち着いてから書くほうがいいと思ったのです。



ここ数日、いろんな方のブログにも目を通しましたが、いつもながらに「サロンの達人」こと佐藤修さんのコメントが一番共感できました。佐藤さんは、3日のブログ「リンチの国」と4日のブログ「ガザのための交響楽団」で、ビンラディン殺害について語っておられます。
「リンチの国」という秀逸なタイトルのブログでは、次のように述べています。
オバマ大統領は、そのことを発表する演説で、『ビンラディン容疑者を拘束または殺害することが就任以来の最優先課題だった』とし、その殺害を『アルカイダ打倒の戦いの中で、最も大きな成果」と強調したそうです。
なんということでしょうか。西部劇の保安官の演説かと耳を疑いました。まだアメリカには、リンチの文化が残っているのでしょうか。そうは思いたくありませんが、フセインの時にふと感じたことがやはり事実だったのかと愕然としました」
佐藤さんはオバマ大統領にはどうも信頼感を持てなかったそうですが、今回の件で改めて失望されたそうです。そして、「チェンジとは、何に向かってのチェンジだったのか」と問いかけています。まったく同感です。何よりも、ノーベル平和賞受賞者の「人の殺害を目標にし、その実現を喜ぶ」という姿に大きな違和感を感じてしまいます。
2009年にアメリカでオバマ大統領が誕生しました。
彼の選挙活動中のスローガンは「Yes,We Can Change!」でした。
まさに、「100年に1度の波」と呼ばれる深刻な不況の渦中にあって、アメリカという巨大国家そのものが「チェンジ」してゆく必要がありました。
それが求められるのは、アメリカという国家だけではありません。
アメリカで発達した強欲資本主義、黒人に代表されるマイノリティを差別する格差社会、そして、キリスト教イスラム教の宗教衝突です。
わたしは、オバマ大統領が、それらのすべてに「チェンジ」をもたらしてくれることを心から願っていましたが、最も期待していたものこそ宗教衝突をチェンジさせることでした。
なぜなら、オバマの父親はイスラム教徒でああったからです。
オバマなら、9・11の最大の背景であった「キリスト教vsイスラム教」を良き方向に変化させてくれるのではないかと思ったのです。


                    「宗教衝突」の深層


わたしは、かつて『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ文庫)という本を書き下ろしたとき、キリスト教イスラム教について徹底的に勉強しました。
21世紀は、9・11米国同時多発テロから幕を開いたと言ってよいでしょう。
あの事件はイスラム教徒のテロリズムによるものとされましたが、21世紀の世界が宗教、特にイスラム教の存在を抜きには語れないということを誰もが思い知りました。
テロリストたちが標的としたアメリカ合衆国は、ソ連なき後、世界で唯一の超大国です。そして、同時に巨大な宗教国家でもあります。これまで歴代のアメリカ大統領全員が、就任時には『聖書』に手を置いて宣誓しています。
世界における総信者数で1位、2位となっているキリスト教イスラム教は、ともにユダヤ教から分かれた宗教です。つまり、この3つの宗教の源は1つなのです。
ヤーヴェとかゴッドとかアッラーとか呼び名は違っても、3つとも人格を持つ唯一神を崇拝する「一神教」であり、啓典を持つ「啓典宗教」なのです。
啓典とは、絶対なる教えが書かれた最高教典のことです。おおざっぱに言えば、ユダヤ教は『旧約聖書』、キリスト教は『新約聖書』、イスラム教は『コーラン』を教典とします。



また、佐藤さんはブログで次のように書かれています。
「中近東で起こっているデモの映像を見て思うことがあります。若い女性たちが顔を見せて、銃器の前でもたじろがずに、しっかりと自己主張しています。最近そういう映像を繰り返し見ているうちに、これまでの私のアラブやイスラム社会の知識の偏りに気づかされました。学生の頃から中東の歴史やイスラム関係の書籍はそれなりに読んできたつもりでしたが、やはりどこかに埋め込まれた先入観から自由ではなかったのです」
佐藤さんはCWSのホームページで『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』の書評も書いて下さいましたが、同書を書いたとき、わたしもアラブやイスラム社会についての知識がこれまでいかに偏っていたかを痛感しました。
レバノン生まれのジャーナリストであるアミン・マアルーフが書いた『アラブが見た十字軍』(ちくま文庫)という本があります。これを読むと、アラブ人たちが「フランクの侵略」と呼ぶ十字軍がいかに凶暴な殺戮集団であったかがよく分かります。
実際、イスラム教徒がキリスト教聖地巡礼を迫害しているという名目で始めた十字軍遠征は、キリスト教側のデマゴーグであり、イスラム教徒の迫害などほとんどなかったことが世界中の歴史学者によって明らかにされています。
キリスト教側が攻撃や略奪などを繰り返したので、イスラムムハンマドの伝統にのっとって「聖戦」(ジハード)に乗り出したというのが歴史の真実なのです。
そもそも『コーラン』には防衛戦争以外の戦争をしてはならないと記されているのです。
イスラムについてしばしば言われる「右手にコーラン、左手に剣」という言葉についても、キリスト教側が創作した宣伝文句だということが明らかになっています。
この言葉は、イスラム教は『コーラン』に従わない者、つまり改宗しない者には、剣をもって殺すという意味で用いられますが、事実はキリスト教徒が制服されても、一定の税金さえ納めていれば信仰の自由と生命・財産の安全は保証されたのです。



このようにイスラム教は基本的に他宗教に寛大です。
その寛大なること、仏教と双璧と言ってもよいでしょう。
エジプトに逃れてきたコプト教というキリスト教の一派があります。
このコプト教ギリシャ正教などのキリスト教他宗派は徹底的に弾圧したにもかかわらず、イスラム教は暖かく迎え、信教の自由を認めているのです。 
酷いのはキリスト教のほうであり、イスラム勢力を駆逐した後のスペインなどでは、きわめて残酷な方法でイスラム教徒を片っ端から殺した。
このような事態になった場合、イスラム教徒は決定的に不利です。
キリスト教徒は信仰を内に秘め、外面はとぼけていれば教徒だとは露見しませんが、イスラム教徒は隠しおおせないからです。
信仰告白は声に出さなければならず、礼拝もしなければなりません。
しかも、信仰と行動をはっきりとさせなければ信仰したことにはなりません。
だから、「隠れキリシタン」はあっても、「隠れムスリム」というのは存在しないのです。
キリスト教は「隣人に対する無条件の奉仕」を説きます。この教義通りに、多くの人々が無報酬で、まったく見知らぬ他人にかぎりない奉仕を行なってきました。
これも神の命令だからです。一方で、無条件にジェノサイド(大虐殺)する者もいます。
神の命令であるかぎり、隣人にかぎりなき奉仕をする人が同時に大虐殺を行っても矛盾しないわけです。



殺害されたときのビンラディン容疑者は武装していなかったといいます。
ビンラディンはいったんは生きて拘束されたものの、その後殺害されたと彼の12歳の娘が証言していると、パキスタン紙ニューズ(電子版)が報じています。
同紙によれば、2日未明の急襲作戦開始数分後、ビンラディン容疑者は米軍特殊部隊員に捕まり、家族の前で射殺されたと娘が主張しているそうです。
また、政府関係者によると、拘束された隠れ家の住民はビンラディン容疑者も含めて「こちら側から米軍へは一発たりとも発砲していない」と口をそろえています。
こんな殺害の仕方をして狂気するアメリカ国民を見ると、佐藤さんの言った「リンチの国」という言葉がますます重みを増してきます。
なんと、アメリカ国民の92%が今回の殺害を支持しているそうです。
小さな子どもたちは、どうなのでしょうか。彼らには、自分の親が武装せずに家族の前で射殺されるということが想像できるでしょうか。いずれにせよ、「正義は正義、悪は悪」という単純な二元論に、一神教の悪弊を見た思いがします。


                    「憎悪」の連鎖を超えて


オバマ大統領が9・11の憎悪をアメリカ国民に思い出させたことも、わたしを暗い気持ちにさせました。『ハートフル・ソサエティ』(三五館)の第1章「ハートレス・ソサエティ」の冒頭にも書きましたが、20世紀は、とにかく人間がたくさん殺された時代でした。
20世紀に殺された人間の数は、およそ1億7000万人以上といいます。
なぜ、それほど多くの人間が殺されたのでしょうか。イデオロギー、植民地帝国主義の遺産、野心、欲望、狂気など、さまざまな理由が考えられますが、わたしは人間の持つ最もネガティブなエネルギー、すなわち「憎悪」の存在が大きいと思います。
ダライ・ラマ14世は、「人間の苦しみの多くは、その根に破壊的感情があります。憎しみは暴力を増長し、異常なまでの渇望は人を悪癖に溺れさせるのです」と語っています。ピュリッツァー賞を受賞したアメリカの作家ラッシュ・W・ドージア・ジュニアによれば、「憎悪」は心の核兵器です。爆発すれば社会秩序を吹き飛ばし、世界を戦争とジェノサイドの渦に引き入れるでしょう。



1999年7の月にノストラダムスが予言した「恐怖の大王」は降ってきませんでした。
20世紀末の一時期、「20世紀の憎悪は世紀末で断ち切ろうと」いう楽観的な気運が世界中で高まり、多くの人々が人類の未来に希望を抱いていました。
そこに起きたのが2001年9月11日の悲劇でした。
テロリストによってハイジャックされた航空機がワールド・トレード・センターに突入する信じられない光景をCNNのニュースで見ながら、わたしは「恐怖の大王」が2年の誤差で降ってきたのかもしれないと思いました。
いずれにせよ、新しい世紀においても、憎悪に基づいた計画的で大規模な残虐行為が常に起こりうるという現実を、人類は目の当たりにしたのです。
あの同時多発テロで世界中の人びとが目撃したのは、憎悪に触発された無数の暴力の新たな一例にすぎません。こうした行為すべてがそうであるように、憎悪に満ちたテロは、人間の脳に新しく進化した外層の奥深くにひそむ原始的な領域から生まれます。
また、長い時間をかけて蓄積されてきた文化によっても仕向けられます。
それによって人は、生き残りを賭けた「われらvs彼ら」の戦いに駆りたてられます。
グローバリズムという名のアメリカイズムを世界中で広めつつあった唯一の超大国は、史上初めて本国への攻撃、それも資本主義そのもののシンボルといえるワールド・トレード・センターを破壊されるという、きわめてインパクトの強い攻撃を受けたのです。
その後のイラク戦争などの一連の流れを見ると、わたしたちは、前世紀に劣らない「憎悪の連鎖」が、いま、巨大なスケールで繰り広げられていることを思い知ります。
まさに憎悪によって、人間は残虐きわまりない行為をやってのけるのです。
5月1日に、オバマが全世界に向かって発したメッセージとは、「人類よ、けっして憎悪を忘れるな!」ということだったと思います。


                  「朝日新聞」5月5日朝刊


いくら人を殺しても、世界は変わりません。
憎悪の連鎖を断ち切らない限り、新たなビンラディンが登場してくるでしょう。
オバマのいう「チェンジ」は、憎悪の連鎖を断ち切る「チェンジ」であってほしかった。
彼にノーベル平和賞を与えた人々は、いま、何を考えているでしょうか?
今回の殺害は、ちょうど世界中が英皇室結婚式に気を取られてる間に遂行されました。
結婚は最高の平和である」とはわたしの口癖ですが、奇しくも時期が重なった英皇室結婚式とビンラディン殺害は、それぞれ「愛」と「憎悪」のシンボル的事件となりました。
さらに、オバマ大統領は、今回の殺害を自身の再選に向けてのキャンペーン始動のタイミングに合わせたことも明白ですね。
アメリカは、1人の無抵抗な人間を嬲り殺しにすると支持率が上昇する国です。
佐藤さんは、「リンチを続ける野蛮国のアメリカに依存しなければならない日本の国民であることが、実に憂鬱で、言いようのない怒りを感じます」とブログに書いています。
この言葉にも、まったく同感ですね。



わたしの結論を言えば、アメリカはビンラディンを殺害せず、生きたまま逮捕するべきでした。そして、裁判にかけ、9・11の真相を語らせるべきでした。
その後、彼が大量殺人の首謀者だと確定すれば、堂々と死刑にすべきでした。
今朝の「朝日新聞」によれば、国連のピレイ人権高等弁務官は「米国はすべての対テロ作戦で国際法を尊重すると主張してきたはずだ」とし、殺害を前提とした作戦に疑問を投げかけたそうです。かつて「東京裁判」という人類史上に残るインチキ裁判を行ったアメリカには国際法など関係ないのでしょう。
ビンラディンを生け捕りにすることに成功したにもかかわらず、それをしなかったのは真実を隠すために「口封じ」をしたと言われても仕方ないでしょう。



ビンラディンの遺体は水葬されたそうです。
なぜ、殺害の最高の証拠となる遺体を水葬したのか。
これも、遺体を海に捨てて証拠隠滅したと言われても仕方ありません。
こんな不審な行動ばかり取っているから、アメリカは「イルミナティの手先」だとか、「アポロは月に行っていない」とか「チェルノブイリも福島も、アメリカが人工地震によって原発事故を仕掛けた」などと言われるのです。
数あるアメリカについての陰謀説の中で、もっとも信憑性のあるのは「9・11自演説」だと個人的に思います。今回の証拠隠滅で、再び、自演説が横行するのは必至でしょう。
そして、遺体がないわけですから、ビンラディン生存説も登場するはずです。
なにしろ、ヒトラーの生存でさえ信じている人々が多数いるのです。
「じつはビンラディンは生きている!」が話題になるのは、時間の問題と言えるでしょう。
最後に、亡くなったビンラディンの風貌がイエス・キリストに酷似しているという書き込みが世界中のインターネット上に駆け巡っています。
ビンラディンは、ナザレのイエスのように復活を遂げるのでしょうか?


2011年5月5日 一条真也