土下座と原発

一条真也です。

ブログ「ビンラディン殺害に思う」で、「サロンの達人」こと佐藤修さんのブログ記事を紹介しました。いつも佐藤さんから多くのことを学ばせていただいています。
今回もまた、非常に考えさせられるブログ記事を書かれています。
東電社長の土下座」と題する記事です。


佐藤さんは、ブログの冒頭に次のように書かれています。
「東電社長が被災地を回って謝罪している姿を見て、気持ちがまた暗くなりました。土下座まで強要されているのを見たときは、とても悲しい気持ちになりました。東北被災地を応援しようという気持ちは萎えました」
「東北被災地を応援しようという気持ちは萎えました」とは、とても勇気が必要な言葉だと思いますが、同じことを感じた日本人は多かったでしょう。それぐらい、「土下座しろ!」という怒声には、日本人の心を逆なでするものがありました。
清水社長をはじめ、東電の幹部や社員たちは、黙って土下座しました。
その姿は痛々しく、わたしには見るに耐えないものでした。
はっきり言って、美しい光景ではありませんでした。わたしは、礼儀作法とは美しくなければならないと考えています。そして、土下座も立派な礼儀作法です。



もともと「土下座」とは、土の上に直接座って平伏して行う座礼のことで、言うまでもなく、日本の礼式の一つなのです。土下座によって、非常に高貴な相手に対して恭儉の意を示すとともに、深い謝罪や請願の意をも表してきました。
土下座は古くからの日本の習慣であったとされています。
魏志倭人伝』には、かの邪馬台国における土下座の描写があります。
貴人と道端で出会った平民が「道端で平伏して柏手を打つ」との記載があるのです。
また、古墳時代の埴輪の中には、平伏して土下座をしている姿のものもあるとか。
それ以来、近代に至るまで、庶民が貴人に面会するときは土下座をする習慣でした。
謝罪としての土下座が普及したのは江戸時代のことです。
相手に土下座をして謝れば、大抵のことは許してもらえる風潮があったそうです。



わたしは、土下座そのものが悪いとは思いません。
心から相手に対しての謝意を表したい場合は、大いに土下座するべきだと思います。
わたしも会社を経営していますので、もし何か「自分が本当に悪かった」と思うことがあれば、お客様や取引会社や社員のみなさんに土下座する覚悟はあります。しかし、自分の意志でする土下座と他人から強制される土下座では明らかに意味合いが違います。
それに、本当に東電に対しての怒りが収まらないのなら、避難所の人は安易に土下座を強要するべきではなかったと思います。
なぜなら、日本では「土下座」は一つの「けじめ」としてとらえられるからです。
つまり、東電社長の土下座によって、禊が済まされたという見方もできるからです。
賠償金の問題など、まだ問題は解決していません。それらの問題に一応の目途が立ってから相手の謝罪を受けるべきなのです。ですから、あの謝罪されることを予想して面談を頑なに拒んでいた市長の判断は、まったく正しいと言えるでしょう。



土下座した後で向かった避難所でも、清水社長は床に正座して謝罪を続けました。
何人かの避難者は、清水社長が頭を下げると返礼のお辞儀をしていました。
このことについて、「相手につられて頭を下げるのは日本人の悪い癖」などとネットで発言している者がいますが、とんでもない話です。
これは悪癖などでなく、日本人の美徳です。
礼には礼をもって返すというのは、日本人の「こころ」のDNAです。



その避難所でも、清水社長は糾弾され続けました。
避難民への仮払金が100万円であることを持ち出し、「こんな金は、あなた方が一晩で飲んで使うような金でしょう !」と叫ぶ女性もいました。
たしかに、避難所の方々の怒りは筆舌に尽くし難いと思います。
しかし、あの光景に、わたしは何ともやり切れなさを感じました。
また、その女性が叫んだ後に拍手が起こったことには驚きました。
嫌な言葉ですが、「リンチ」という言葉を連想しました。
ブログ「土下座と大人の分別」で書いたように、歌舞伎役者の市川海老蔵は西麻布の酒場で不良たちのリンチに遭い、土下座させられたといいます。
今回、土下座する東電社長の姿が海老蔵と重なりました。
アメリカによるビンラディン殺害は「肉体的リンチ」でしたが、土下座の強要と吊るし上げは「精神的リンチ」です。アメリカと同じく、日本も「リンチの国」になったのでしょうか?



アメリカのビンラディン殺害の背景には「憎悪」の連鎖がありましたが、あの避難所にも「憎悪」が渦を巻いているようでした。
すべては、東日本大震災による福島第一原発の事故から生じた「憎悪」です。
そもそも、原発というものは国や東電が地元の人々の声を無視して一方的に作ったものではありません。必ず、原発推進派と原発反対派の政治家がいて、その土地の首長を選ぶ選挙が行われました。そして、地元の人々は経済的な恩恵もあって、最終的に推進派を選択してきたのです。避難所では、「原発は安全だと言ったじゃないか」と清水社長に詰め寄る人もいました。
しかし、佐藤さんは「原子力が安全などと思う人の気がしれません。原子力爆弾のことを知らないわけはないでしょう。同じ原子力、同じ放射線、それが無縁だと思うほうが、私には間違っていると思います」と述べています。
また、佐藤さんは次のようにも書かれています。
「そもそもこれまで私たちは『安価すぎる電力』の恩恵を受けてきたのです。
原発コストは社会的費用やライフサイクルコストを考慮しないで産出されたものです。
1970年代に、そうした議論は盛んにあり、原発コストは決して安くないという主張もありました。しかしそれを無視して日本経済は、安くて安定した原発を選んだのです。
日本の経済発展は、したがって原発の恩恵を受けてきたといえるでしょう。
国民も当然その恩恵を受けてきたのです」



この言葉を読んで、わたしは漫画家の岡野玲子さんの発言を思い出しました。
ブログ「シャーマニズムの未来」で紹介したシンポジウムで、岡野さんは「福島第一原発の御霊に祈りをささげた」 と発言されました。
もともと原発とは、人間が生みだしたものであり、ずっとお世話になってきた存在です。
それなのに、多くの人々から嫌われ、強く憎まれ、そして、この暴走を自分で求められない悲しみ・・・・・。その原発の声が聞こえ、その原発のために祈ったというのです。
ちなみに、その原発の御霊は小さな男の子の姿をしていたそうです。
それを聞いて、わたしは鉄腕アトムのような男の子を連想しました。



佐藤さんも言われていますが、いま大切なことは、「誰が悪いか」ではありません。
いま大切なことは、「どうやって、この危機を乗り越えていくか」です。
言い争ったり、魔女裁判をしている場合ではありません。
佐藤さんは、「テレビの映像を見て、元気が出ることも多いですが、暗い気持ちになることも多いです。テレビの報道のあり方に問題があるのかもしれません」と述べています。
わたしも、東電社長の土下座する姿をテレビで見て、非常に暗い気持ちになりました。
「もう、福島での隣人祭りなどやめようか」とも思いました。
でも、このままでは自体は何も好転しません。
「義を見てせざるは勇なきなり」は、わが信条です。
「だからこそ、隣人祭りが必要かもしれない」とも思うのです。
正直言って、いま、わたしの心は大きく揺れています。


2011年5月5日 一条真也