見舞いの言葉

一条真也です。

骨折3日目、今朝から自宅が補修工事に入りました。
ブログ「尾道空き家再生」に書いたように、わが家は築80年以上のボロ家です。
そのため、今週から大規模な補修を行う予定だったのです。
ですから家の中には早朝から職人さんがたくさん入って、足の踏み場が・・・・・。
こんなときに足を骨折するなんて本当に間が悪いですな。
仕方ないので、わたしは狭いスペースを松葉杖を使って歩きました。
病院に行くため家を出るとき、今朝は雨が降っていました。
それで、家の前のスロープで松葉杖がすべり、転びそうになりました。
ここで転んで二重骨折するわけにはいきません。雨の日は気をつけないと!
そういえば、これから梅雨に入り、雨が続く季節です。
まったくロクでもないタイミングで骨折したものです。
ブログ『3・11クライシス』で「カイロス」について書きました。ギリシャ語で「運命の時」といった意味ですが、やはり5月21日は、わたしにとってのカイロスだったようです。


                  70通目のムーンサルトレター


今日は、土曜日に駆け込んだ病院とは別に、行きつけの整形外科に行きました。
じつは、セカンドオピニオンで骨折ではないことを願っていたのですが、ダメでした。
やっぱり、しっかり折れていました。しばらくは毎日、通院します。
まったく嫌になってしまいますが、すべてを「陽にとらえる」ことが大事です。
これも、良い静養の時間、熟慮の時間を神が与えて下さったのだと思うことにします。
診療を終えて、会社に向うと、サンレーの社員のみなさんが心配してくれました。
誰が心配してくれなかったとは言いませんが、やはりサービス業という「こころの仕事」をしている人たちは基本的に親切です。
社長室に入ってパソコンを開くと、新しい「ムーンサルトレター」がUPしていました。



レターは、なんと今回で70通目になっています。
ついこの前、60通を達成して、その後に『満月交感 ムーンサルトレター』(水曜社)として単行本化したばかりなのに、あれからさらに10通もレターを交換したわけです。
まったく、時間の流れの速さには驚くばかりですね。
わたしは、「Tonyさんは東北の被災地へ行かれていたそうですね。どのような状況だったか、ぜひ聞かせていただきたいです。わたしも、遅まきながら、今月26日から気仙沼に入ります。被災地を自分の目で見て、いろいろと考えてみたいと思います」などと書いています。そう、わたしは今週から被災地を巡るはずでした。
本当に残念で仕方ありませんが、骨折を治してから、また再度トライします。


                 佐々木宏幹先生からのお葉書


レターでは、ブログ「シャーマニズムの未来」のシンポジウムの話題を書きました。
そのシンポジウムの翌日、鎌田先生と日比谷でランチをともにした後、わたしはそのまま羽田空港へ行き、飛行機に乗って北九州へ戻りました。
そして、「シャーマニズムの未来」の基調講演者であった佐々木宏幹先生にお手紙を書き、『満月交感』の本を添えてお送りしたのです。
すると、しばらく経ってから、佐々木先生から丁重な葉書を頂戴しました。
そこには達筆な字でお礼の言葉やメッセージがびっしりと書かれていました。


                   「月に吠ゆる狼」の図


佐々木先生は『満月交感』を気に入って下さったようで、「上下巻の表紙の『月に吠ゆる狼』は強く心に響きます」と書いて下さいました。
また、「一条さんの『葬式は必要!』(双葉新書)を読み、心強く思っていました。日本の仏教は葬式がベースであると考えているからです」とも書かれていました。
その他にも、佐々木先生からは心あたたまるお言葉を頂戴し、最後には「ますますの御活躍を念じます」とまで書いて下さいました。
わたしは、この佐々木先生からの葉書を読んで、本当に感動しました。体調が優れないであろう先生から丁重なお葉書を頂き、そこに大いなる「礼」の精神を感じたのです。
「礼」とは「人間尊重」の精神でもあります。そして、わたしたち冠婚葬祭に従事する者が最も重んじているものです。シャーマンであった母親から生まれた孔子は、「礼」を重視する儒教を開きました。シャーマニズムは「礼」の思想へと発展していったわけです。
わたしは、シャーマニズム研究の第一人者である佐々木宏幹先生が「霊能力者」ならぬ「礼能力者」であると知り、非常に感動しました


              鎌田先生からお見舞いの言葉を頂戴しました


また、今回のレターでは、鎌田先生は冒頭に次のように書いて下さいました。
「まず、Shinさんにお見舞いの言葉を申し上げねばなりません。本日夜、小倉でお会いして、いろいろとお話しできることを楽しみにしていましたが、骨折をされて療養を余儀なくされたとのこと、心よりお見舞い申し上げるとともに、これもまた一つのからだのメッセージ、時のメッセージと受け止めて、急がず、焦らず、慎重に体の回復をはかりつつ、別の形でShinさんの活動と行動を着実に進めてくださればと思います」



さらには、レターの途中でも以下のように書いて下さいました。
「こんなことを言うと、怒られるかもしれませんが、考えてみれば、骨折ですんで、よかったのかもしれません。Shinさんは、これまで働きすぎでした。常人の活動量ではありませんでした。それをわたしは、『満月交感』(下巻)のあとがきで、『ウルトラマン』みたいだと言いましたが、本当にそう思います」
「半端ではない活動をするのは、しかし、生身のからだ、です。その生身のからだが、今回、休息のメッセージと、急がずゆっくり進めという『いのちの信号』を送ってきてくれたのだと思います。サンレー社長として、また文筆家・作家として、また大学の客員教授として、また冠婚葬祭業の業界の広報委員長として、また今回の東日本大震災に関わる指揮者として、八面六臂の活動と活躍をしていました。けれども、このまま突っ走れば、まだまだ若い40代のバリバリのからだにも、無理の上にも無理が重なり、さまざまな部位に微妙な黄信号が点り、故障も起きやすくなったのではないでしょうか」



わたしは、このレターを読んで、本当に感謝の念で胸がいっぱいになりました。
まるで実の兄弟のように心配してくれる義兄弟の思いやりを心から有難く感じました。
鎌田先生のお見舞いの言葉は、これまでわたしが触れた中でも最も魂に響く内容でした。きっと、心から、わたしのことを心配して下さったからこそ、真実の言葉となったのだと思います。佐々木先生と同じく、鎌田先生も大いなる「礼能力者」でした。
鎌田東二先生、お見舞いの言葉、本当にありがとうございました。


              「見舞い」の言葉が人間関係を良くする


見舞いの言葉といえば、かつて、『人間関係を良くする17の魔法』(致知出版社)という本を書きました。わたしはその本に「第13の魔法・・・・・見舞い」という一章を設けて、病気や怪我の人を見舞う言葉について書きました。
鎌田先生の言葉は最上級篇といったところですが、一般的な見舞いの言葉は「いかがですか」とか「お大事に」といった愛語がよいとされています。
絶対にやってはいけないことは、病気で入院している人への忠告です。
哲学者ニーチェは、著書『人間的なあまりに人間的な』で、次のように述べています。
「病人の忠告者――病人に忠告を与える者は、受けいれられても聞き捨てられても、相手に対する一種の優越感を覚える。だから、怒りっぽくて誇りの高い病人は忠告者を自分の病気そのものよりももっと嫌うものだ」
たしかに、病気にならないための健康的な生活、体によい食事や運動、ストレスをためないことの大切さなどを延々と病人に説く見舞い客を見かけることがあります。
ニーチェの言葉を知れば、いかにこれが愚の骨頂であるかがわかりますね。「健康はすばらしい」ことなど、当の病人が一番よく熟知しているのですから。
見舞いという行為は、人間関係を良くもしますが、逆に悪くする危険性も持っています。
見舞いとは、思った以上に難しいものなのです。
結局は、社会人として良好な人間関係作りを心がけることが大切でしょう。
病人や怪我人を見舞うには、神経を使い、機転を働かせることが大事になります。
すなわち、「気づき、気配り、気働き」ということがポイントになるといえるでしょう。
何気ない言葉でも、相手には心に突き刺さるようなものかもしれません。



そして、お見舞いの言葉や話題の選び方にも充分に気をつけることが大切です。
言葉遣い、話題の選択いかんでは、相手から「なんだ、あの人は!」と思われることにもなりかねません。せっかくの好意がかえってその人の人格を下げてしまうケースも見られます。くれぐれも、相手を思いやり、自分を慎むことが必要です。
これは病気や怪我に限らず、今回の東日本大震災のような被災者の方々を見舞う場合も同じです。さらには、愛する人を亡くした遺族の方々にかける言葉にも通じます。
ちなみに、この世で最高の「お見舞いの達人」は、天皇・皇后両陛下だと思います。
ブログ「日本のこころ」を読めば、そのことがよくおわかりになると思います。
考えてみれば、「お見舞い」というのは、皇室の方々の大切なご公務ですね。


                  中野さんからのお見舞いメール


ここまで書いてブログを終わろうと思っていたら、「出版界の青年将校」こと三五館の中野長武さんから以下のようなメールが届きました。
「ブログを拝見して、驚きました。心よりお見舞い申しあげます。
私も2005年にバイクで転んでヒザを骨折しました。一条さんとおなじく、その後、歩いたのが悪かったのか、靭帯と半月板も損傷していました。その後、1〜2カ月は不自由をきわめましたが、不自由があることで自由のスゴさが実感できました。
飛べるのが当たり前な鳥は、飛べることの偉大さが理解できない。歩いたり走ったりするのが当たり前な人は、歩けること走れることの偉大さが理解できない。歩けなく走れなくなってはじめて、歩くこと走ることの偉大さを実感として私は知りました。
当たり前が当たり前でないことに気づくと、当たり前が輝いてきます。
骨折経験者に釈迦に説法かもしれませんが、こんなときこそじっくりゆっくりと当たり前の偉大さを満喫されてください。そして、一日も早く完治されてください。
全快されることをお祈り申しあげます」
この言葉も、わたしの心に響きました。中野さん、ありがとうございます。
それにしても、心のこもったお見舞いの言葉をかけられると、かけられたほうは絶対に忘れませんね。「見舞い」とは、やはり人間関係を良くする魔法であることを痛感しました。


2011年5月23日 一条真也