一条真也です。
『全思考』北野武著(幻冬舎文庫)を読みました。
ブログ『超思考』で紹介した本は、想像以上に面白く読めました。
それで、その前作に当たる本書を書店で購入、早速読んでみたのです。
稀代の天才が現代社会の腐食を斬る傑作エッセイ
もともと本書は2007年に刊行された単行本を文庫化したものです。
そこで語られているテーマは、5つあります。
すなわち、「生死」、「教育」、「人間関係」、「作法」、そして「映画」。
著者の考え方は、けっして特殊ではありません。逆に「まとも」なのですが、現代社会に生きる人間の価値観のほうが歪んでいるために非常に過激に見えます。
本の構成は、著者の馴染みの小料理屋さんの主人と著者が飲みながらカウンター越しに語り合うような感じで、カジュアルな文体になっています。それにしても、「世界のキタノがここまで!」と思えるほど、著者は「素」の自分を出しているように思いました。
本書は、全篇いちいち納得してしまう名言集のような本なのです。
その中でも、特にわたしの印象に強く残った箇所を抜書きしたいと思います。
「人類がこの地球上に出現して何百万年経ったか知らないが、死ななかった人間は一人もいない。人間は誰でも死ぬ。
人生のゴールは死ぬことなのだ。競争なら、早くゴールに着いた方が勝ちだ。
だったら、早く死んだ方が勝ちなんじゃないか。
釈迦だって、生きることは苦しみだと言っている。それなら、生まれてすぐに死ぬのがいちばん幸せかもわからない。人生の苦しみを感じずにすむのだから。
人生は、長生きすりゃいいってもんじゃない」(第一章「生死の問題」)
「神様はいるのかいないのかと考えたり、議論をすること自体が、すでに神という存在を前提にしている。神という以外の言葉はないのかと思う。だけどそういう言葉はないわけで、神という言葉を頭の中から取り払うのは、ほとんど無理なんじゃないだろうか。その言葉が頭の中にある限り、完全に信じてはいなくても、心のどこかにそういう存在が絶対にいないとは限らないという思いが残るのだ。
もっとも、いわゆるキリスト教的な神は、俺にはあまり馴染みがない。昔の日本人がよく言ったように、お天道様が見ているという方が俺の心にはしっくりする。何をするのもお前の自由だ、でもお天道様はいつも見ているんだよという感覚が、神様と人間の関係で言えば、いちばん理想的な距離感だと思うのだ」(第一章「生死の問題」)
「そもそも親子が仲睦まじいというのが、どうもわざとらしいというか、俺には耐えられない。父ちゃんなんてものは、煙ったくて、おっかねえくらいで、ちょうどいい。
マイホームパパだかなんだか知らないが、いつもニコニコ笑っていて、子供の気持ちがよくわかる、物分りのいい父親が理想だなんてことになった頃から、どうも教育がおかしくなった。子供の気持ちなんて、そんなものは、大人なら誰だってわかってる。どんな大人だって、昔は子供だったのだ。わかってはいても、駄目なものは駄目なんだと父親が教えてやらなきゃいけない。
そういうことを教えてやれない、物わかりのいい父親が多すぎる。父親が子供に媚びを売ってどうする。結局は自分が可愛いだけのことなんじゃないか。
父親は子供が最初に出会う、人生の邪魔者でいいのだ。
子供に嫌われることを、父親は恐れちゃいけない」(第二章「教育の問題」)
「子供は素晴らしい、子供には無限の可能性がある。
今の大人は、そういうふざけたことを言う。
子供がみんな素晴らしいわけがないじゃないか。
残酷な言い方だが、馬鹿は馬鹿だ。足が遅いヤツは遅いし、野球がどんなに好きだって、下手なヤツはいくら練習しても下手なのだ」
「どう考えたって、平等なんかじゃない。なのに、どういうわけだかみんな平等だってことにしたくて、努力すればなんとかなる、なんてことを言いだした。
子供に『お前は馬鹿なんだから』と言うより、そっちの方がよっぽど残酷だ」
(第二章「教育の問題」)
「それにしても、学校の先生も大変だと思う。
今じゃ生徒を叩いたら、暴力教師のレッテルが貼られてしまう。下手をすると、怒鳴りつけたくらいのことでも、学校に文句を言ってくる親がいるらしい。
猛獣使いに、鞭を使わずに調教しろと言っているようなものじゃないのか。子供なんてものは、どこかでガツンとやってやらないと、どんどんつけあがる生き物なのだ。放っておけば、学級が崩壊するのも当然だ。
昔は学校で先生に殴られても、親には絶対に言わなかったものだ。そんなこと喋ろうものなら、『また悪戯したのかっ!』と、親にまで殴られる。
今の子供は、親が学校に文句を言ってくれるから、そのまま親に言いつける。そして、教師は子供を叱らなくなる。教育循環はどんどん悪化する。子供は叱られ慣れていないから、社会に出てもロクに使い物にならない。
今の親には、その悪循環が見えていない」(第二章「教育の問題」)
「ナンバーワンじゃなくてもいいから、オンリーワンを目指しなさいというのも、考えてみればかなり妙な理屈だ。
オンリーワンになれというのは、あなたにしかできないものを探せということだ。そうすりゃ、競争なんて面倒なことはしなくて済む。つまり、オンリーワンというのは、『誰も競争相手のいない世界を見つけて潜り込めば、あなたも一番になれますよ』と言っているだけのことなのだ。
人間は誰だって一番が好きだ。だけど、競争のない世界に、一番なんてあるわけがない。本当に意味のある仕事で、誰かひとりにしかできないことなんてあるわけないだろう。負けるヤツがあるから、勝つヤツがいる。
でも負けるのは嫌だから、自分の子供に負けを認めさせたくないから、努力することに価値があるとか、オンリーワンになれる世界を見つけなさいと言う。
競争を否定するくせに、一番ということにはこだわる。
オタクが増えるわけだ」(第二章「教育の問題」)
「携帯電話を買うというのは、本当は携帯電話を買っているのではなく、人とのコミュニケーションを買っていることになる。
誰かが誰かと話すたびに、個人の懐から電話会社へと金が流れているのだ。普通の電話だって同じことだけど、あれはまだ場所の制約があった。携帯電話をみんなが持つようになって、いつでもどこでも誰とでも、話ができるようになった。
これは確かに便利なようだけれど、別の面から見れば、いつでもどこでも誰とでも、話をすることに金がかかるようになったということだ。
その携帯電話にメールだのカメラだのインターネットの機能がついて、便利になったと喜んでいるが、それも見方を変えれば、個人から金を集める方法がより巧妙になったということ」(第二章「教育の問題」)
「ウチは特別だったかもしれないけれど、金に関しては、子供の頃から厳しく教育されていた。金のことでつべこべ言うと、母親にこっぴどく怒られたものだ。
誰だって、金は欲しいに決まっている。だけど、そんなものに振り回されたら、人間はどこまでも下品になるというのが母親の考えだった。貧乏人の痩せ我慢と言ったらそれまでだが、そういうプライドが、俺は嫌いじゃない。
人間は折衝しなきゃ生きていけない。セックスしなきゃ子供ができないし、ウンコも毎朝しなきゃいけない。そして生きていくのは金が要る。
俺は金が欲しいだなんて、そんな当たり前のことを言うのは、俺はウンコするのが大好きだと言うのと同じだというわけだ。
人間なんてものはどんなに格好をつけていても、一皮剥いたらいろんな欲望の塊みたいなものだ。でも、だからこそ、その一皮のプライドを大事にしなくあいけない。それが文化というものだろう」(第三章「関係の問題」)
「そもそも、シルバーシートみたいなものを作らなきゃいけないっていうのが、すでにおかしな話なのだ。
年寄りが来たら、若者は立つのが当たり前だ。辛そうに立っている人がいるのに、シルバーシートじゃないから席を譲らなくていいなんて話が通るわけがない。
公共の乗り物なんてものは、全部の席がシルバーシートに決まっているのだ。
ところが近頃は、シルバーシートどころか、若いヤツが人の通るところに平気で座り込んで、通行人を睨みつけたりしている。
ワルはワルでいいけれど、ワルにもやりようがあるだろうって思う。
だけど、ワルが誰にでも当たり散らすような社会にしてしまったのは、逆にいえば社会だ。昔はワルにだって、もうちょっともともな作法があった。社会が下品になって、ワルの作法までがおかしくなった」(第四章「作法の問題」)
「そもそも作法の型というのは、歴史の中から生まれたものだ。
たとえば、畳の縁を踏んじゃいけないという。それは、畳と畳の隙間は、縁の下から刀を突き出すことができるからだって話がある。元々は、作法というよりも、護身のための生きる術だった。その術がいつしか作法になって、元来の意味が忘れられても、今に残っているわけだ。座ってお辞儀をするとき、三つ指をつくのにも、昔はちゃんとした理由があった。そういう作法は、残す意味があると思う。
だけど、最近はその作法が、ファストフードの店のマニュアルに取って代わられようとしている。それは相手への気遣いでも、生き方の術でもなんでもなくて、短時間で効率よく客をさばいて、大量のモノを販売するためのマニュアルでしかない」
(第四章「作法の問題」)
「作法というと、世間ではすぐテーブルマナーの話になる。
いい大人が、そういうことに惑わされてはいけない。
早い話が、ナイフとフォークが苦手なら、箸を頼むだけのことだ。そこで箸が出てこないようならレストランが悪い。いいレストランほど、客を気遣ってくれるものだ。21世紀にもなれば、フランスの三ツ星レストランだって、きっと箸くらい用意している」
(第四章「作法の問題」)
「他人への気遣いで、もうひとつ大切なのは、話を聞いてやることだ。
人間は歳を取ると、どういうわけかこれが苦手になるらしい。むしろ、自分の自慢話ばかりしたがるようになる。だけど、自慢話は一文の得にもならないし、その場の雰囲気を悪くする。他人の自慢話を聞いていれば、それはよくわかるはずだ。
それよりも、相手の話を聞く方がずっといい。
料理人に会ったら料理のこと、運転手に会ったらクルマのこと、坊さんに会ったらあの世のことでも何でも、知ったかぶりをせずに、素直な気持ちで聞いてみたらいい。自慢話なんかしているより、ずっと世界が広がるし、何より場が楽しくなる」
(第四章「作法の問題」)
発言の数々を読んでいると、著者が大いなる哲学者にしてモラリストであることがわかります。そして、生粋の江戸っ子らしく、「江戸しぐさ」の思いやりの心を持っていることに気づきます。おそらくは、お母さんの影響なのでしょう。
「三つ子の魂、百まで」という言葉が思い起こされます。
個人的には、コロムビア・トップに帝国ホテルで生まれて初めてのステーキを、ポール牧に生まれて初めてのフグ料理をご馳走になった話に癒されました。
また、著者が自身のテレビ番組に、綾小路きみまろさんをゲストで呼んだとき、本当に嬉しくて、番組で出されたワインをガンガン飲んで酔っぱらった話も良かったです。
著者は、昔の売れなかった頃のライバルとの再会を心から喜んでいたのです。
本書の中で、著者は昔の芸の師匠について次のように書いています。
「端から見ても格好のいい、大人の作法を身につけている人は、だいたい照れ屋だ」
この言葉は、そのまま著書本人にも当てはまるように思います。
最後に、本書は著者の本音が炸裂していて非常に面白く読めましたが、最後の第五章「映画の問題」だけはトーンダウンして、今ひとつピンと来ませんでした。
著者は映画に思い入れがありすぎて、他の話題のように適度な距離を取れないのかもしれません。しかし、映画監督・北野武のファンならば、それもまた魅力なのでしょう。
いずれにしても、本書は1人でも多くの日本人が読むべき名著だと思います。
2011年5月27日 一条真也拝