「遠野」の絆

一条真也です。

今朝の「産経新聞」のトップ記事は「遠野」にまつわる内容でした。
国難で強まる『遠野』の絆」という大見出しが踊っています。
「震災を歩く」のシリーズで、「日出る国の民」というタイトルです。


                  「産経新聞」6月1日朝刊


先日、ブログ『遠野物語と怪談の時代』で遠野について書いたばかりです。
ブログで紹介した本は、日本推理作家協会賞「評論その他の部門」を受賞したとか。
他の新聞に出ていた角川学芸出版の書籍広告で知りました。
東日本大震災以来、わたしはずっと遠野のことを考えていました。
山間部なので海岸沿いほどの甚大な被害はないだろうと思っていましたが、それでも岩手県です。「どれぐらい、あの民話の里は被害を受けたか」と気になっていたのです。
産経新聞」を読んで、少しは遠野の現状がわかりました。



この記事を書いた産経新聞社の関厚夫氏は、記事の冒頭で、『遠野物語』が描く民話の世界は「目前の出来事」であり「現在の事実」であるという著者の柳田國男を紹介しています。そして、関氏は「東日本大震災で被災した三陸海岸を歩いて、同じことを痛感した。ここには日本の原風景と現代の縮図がある」と書いています。
井上ひさしの代表作として知られる『吉里吉里人』の舞台・吉里吉里国のモデルは、岩手県大槌町北部です。海水浴場や漁港があったこの地区では、約800戸の家屋のうち半数近くが津波で全壊しました。



関氏は、「吉里吉里をはじめとした三陸地方は、民話発祥のころから、山間部の遠野とつながっており、いま、その絆を強めている」と書いています。
遠野物語』には、 「遠野の町は七七十(ななしちじゅう)里とて、其(その)市の日は馬千匹、人千人の賑(にぎ)はしさなりき」といった一文があります。
遠野物語研究所の高柳俊郎所長によると、 「七七十里」とは「大槌、釜石、大船渡、陸前高田の海岸部4地区、そして花巻、紫波、岩谷堂の内陸3地区の計7地区と70里の等距離にある交通の要衝」という意味だそうです。この場合、70里とは約40キロをさします。そのため、『遠野物語』には、吉利吉里(吉里吉里)や山田、大槌など被災地の名前や伝承が何度も登場します。


                      遠野駅前にて


この地の利を生かし、震災以降、遠野が支援の拠点になっているというのです。遠野市沿岸被災地後方支援室の話によると、遠野は北海道や秋田、大阪、福岡など全国の警察署や消防署、自衛隊、さらにはボランティアの拠点になっているそうです。現在、延べで4800人が活動に従事しています。当初は災害救助でしたが、今はライフラインを中心とした復旧・復興支援に軸足を移しているとか。
記事には、次のように書かれています。「これは、伝統の継承でもある。たとえば明治29(1896)年の明治三陸津波。『遠野物語』には海岸部から避難してきた男性にまつわる怪異談が収載されており、吉村昭の『三陸海岸津波』には《山間部の村落から有志によって組織された救援隊がやってきて、乏しいながらも食料が生き残った人々に支給された》とつづられている」



関氏が大槌町吉里吉里中学校を訪れたとき、出入り口に、「大槌中学校の皆さん 一緒に頑張っていこう!!」と書かれた張り紙が見えました。
関氏は、記事に次のように書いています。
「筆者の脳裏に、太宰治の随筆紀行文『津軽』の終盤の一節がよみがえった。
《日本は、ありがたい国だと、つくづく思つた。たしかに、日出(い)づる国だと思つた》
さきの大戦末期、故郷・津軽のある寒村で、太宰が村をあげての大運動会を目にしたときの感慨である」
そして、記事の最後は次のように綴られています。
「東北人、また日本人というものは、古来、力をあわせ、耐え、「日常」をいつくしみ、そこに生きる民族なのだ。たとえどんな国難に見舞われようとも。
だが、そんな国民に、国政を担当する者は甘えてはいないだろうか。唐突に、怒りに似た感情がわきあがってくるのを、抑えることができなかった」
菅直人首相の内閣不信任案は可決されるのでしょうか。
それとも、このまま総理の椅子に居座り続けるのでしょうか。
わたし個人としては、岩手県が本籍である“壊し屋”の動きに注目しています。
あの人には、『遠野物語』に出てくる妖怪みたいな雰囲気があると思います。

2011年6月1日 一条真也