浄土真宗講演会

一条真也です。

今夜は、小倉の「パークサイドビル」で講演を行いました。
浄土真宗本願寺派小倉組の主催で、テーマは「葬式必要論と有縁社会」でした。
会場には、エリアを超えて多くのご住職の方々が集まって下さいました。
わが社が日頃からお世話になっている方々もたくさんおられます。


ご住職の方々を前に講演しました



以前、神社の宮司さんたちの前では講演させていただいたことはあります。
しかし、お寺の住職さんたちを相手にお話しするのは初めてです。
まさに「釈迦に説法」ですので、最初にそのことをお断りしました。
そして、まず「葬式必要論」について話しました。
葬式は必要!』(双葉新書)の内容を中心に話を進めました。
葬儀は人類が長い時間をかけて大切に守ってきた精神文化です。
いや、葬式は人類の存在基盤だと言ってもよいでしょう。


葬式必要論を訴えました



昔、「覚醒剤やめますか、人間やめますか」というポスターの標語があったが、わたしは、「葬式やめますか、そして人類やめますか」と言いたいです。
日本人が本当に葬式をやらなくなったら、人類社会からドロップアウトしてしまいます。
あらゆる生命体は必ず死にます。もちろん人間も必ず死にます。親しい人や愛する人が亡くなることは悲しいことです。でも決して不幸なことではありません。残された者は、死を現実として受け止め、残された者同士で、新しい人間関係をつくっていかなければなりません。葬式は故人の人となりを確認すると同時に、そのことに気がつく場になりえるのです。葬式は旅立つ側から考えれば、最高の自己実現であり、最大の自己表現の場ではないでしょうか。「葬式をしない」という選択は、その意味で自分を表現していないことになります。葬儀とは人生の卒業式であり、送別会だと思います。


グリーフケアについてもお話しました



また、今後の葬儀にとって重要な「グリーフケア」についてもお話ししました。
わたしは、グリーフケアの核心は「物語の癒し」としての葬送儀礼にあると述べました。
人間が最も物語を必要とするのは、愛する人を亡くした時です。
死別はたしかに辛く悲しい体験ですが、その別れは永遠のものではありません。
必ず、また愛する人に会えるのです。
世の中には、いろんな宗教があり、信仰があり、物語があります。
それぞれの世界の中では、いろんな再会の仕方があります。
風や光や雨や雪や星として会える。夢で会える。あの世で会える。生まれ変わって会える。そして、月で会える。いずれにしても、必ず再会できるのです。
ですから、死別というのは時間差で旅行に出かけるようなものなのです。
先に行く人は「では、お先に」と言い、後から行く人は「後から行くから、待っててね」と声をかけるのです。本当に、ただ、それだけのことなのだと思います。


「釈迦に説法」させていただきました



拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)にも書きましたが、世界中の言語における別れの挨拶に「また会いましょう」という再会の約束が込められています。
日本語の「じゃあね」、中国語の「再見」もそうですし、英語の「See you again」もそうです。フランス語やドイツ語やその他の国の言葉でも同様です。
これは、どういうことでしょうか。古今東西の人間たちは、つらく、さびしい別れに直面するにあたって、再会の希望をもつことでそれに耐えてきたのかもしれません。
でも、こういう見方もできないでしょうか。二度と会えないという本当の別れなど存在せず、必ずまた再会できるという真理を人類は無意識のうちに知っていたのだと。
その無意識が世界中の別れの挨拶に再会の約束を重ねさせたのだと。
そう、別れても、わたしたちは、必ず再会できるのです。「また会える」という言葉こそは、あらゆる物語を貫く共通の幹であり、普遍のキーワードであることを述べました。


有縁凧」を掲げて、有縁社会を訴えました



さらに、「有縁社会」について話しました。
ご先祖さまとのつきあい方』(双葉新書)をもとに血縁の重要性を、また『隣人の時代』(三五館)をもとに地縁の重要性を説きました。
タテ糸とヨコ糸から「人間の幸福」が実現することを述べ、実際にブログ「有縁凧」で紹介した凧を会場に持ち込み、頭上に掲げて「有縁社会」の必要性を訴えました。
そして、わが社が取り組んでいる「隣人祭り」についてもお話ししました。



流行語になった「無縁社会」ですが、もともと「無縁社会」という日本語は変です。
なぜなら、「社会」とは「関係性のある人々のネットワーク」という意味だからです。
ひいては、「縁ある衆生の集まり」という意味だからです。
「社会」というのは、最初から「有縁」なのです。ですから、「無縁」と「社会」はある意味で反意語ともなり、「無縁社会」というのは表現矛盾なのです。
どうも、「無縁社会」という言葉には、心霊番組「あなたの知らない世界」のように、無理矢理に人を怖がらせようとする意図があるように思えます。
というのも、NHKの一連の番組作りを見ていると、どうも、そこには「絶望」しかないように思えるのです。どう考えても、「希望」らしきものが見当たらないのです。



いたずらに「無縁社会」の不安を煽るだけでは、2012年に人類が滅亡するという「マヤの予言」と何ら変わりません。それよりも、わたしたちは「有縁社会」づくりの具体的な方法について考え、かつ実践しなければなりません。
隣人祭りの精神に「相互扶助」を見たわたしは、わが社で隣人祭りのお手伝いを行ってゆくことにしました。まずは、08年の10月に日本で最も高齢化が進行し、孤独死も増えている北九州市での隣人祭りのお手伝いをさせていただきました。その後、2009年には年間で60回、2010年は130回、2011年には500回以上開催しています。


著書の販売コーナー



いま、「無縁社会」を「有縁社会」に変えなければなりません。まずは、地縁再生から!
これからも、隣人祭りを通じて、地域の人間関係が良くなるお手伝いがしたいと述べました。それから、マスコミ報道などで、みなさんが非常に興味を持たれている「隣人館」についても説明しました。参加者のみなさんは真剣なまなざしで1時間半の話を熱心に聴いて下さいました。盛大な拍手も頂戴して、とても嬉しかったです。
わたしの著書の販売コーナーも設けられ、多くの方々に本を購入していただきました。


二次会にも参加させていただきました


講演後は、懇親会にも参加させていただきました。乾杯の後、記念撮影をしたのですが、永照寺の村上充生住職が「はい、ポーズ!」ではなく「はい、坊主!」と掛け声をかけられたのには爆笑しましたね。小倉ロータリークラブの会長も務められた村上住職はユーモア満点の方で、いつも笑わせて下さいます。
わたしの右斜め前の席には、指方山西教寺の日野真人住職が座っておられました。


作家の指方恭一郎さんと



日野住職は、「指方恭一郎」のペンネームで作家としても活躍されています。
指方恭一郎さんは、第11回九州さが大衆文学賞笹沢佐保賞、第3回城山三郎経済小説文学大賞を受賞されています。なんでも、城山三郎経済小説文学大賞はダイヤモンド社の管轄だそうで、あの『もしドラ』の編集者が担当だったとか。
現在は、「長崎奉行所秘録」シリーズを文藝春秋社から刊行されています。
今後の直木賞の有力候補として非常に注目されている方です。
それに、あの五木寛之さんが49歳で龍谷大学の聴講生になられたときのクラスメイトだったそうです。五木さんに教科書を見せてあげたこともあったとか。
「文化の砂漠」と呼ばれることの多い北九州に、こんな方がいたなんて!
今夜は、小倉の居酒屋で指方恭一郎さんと小説談義をさせていただきました。



それにしても、袈裟を脱がれてスーツやセーター姿になった住職さんたちの変わりようには驚きます。派手目の服装で、しかも眼力のある方ばかりなので、迫力満点!
まことに失礼ながら、某業界の幹部のようにも見えます(苦笑)。
村上住職も「みんなでバス旅行すると、バスガイドが怖がるんですよ」と笑いながら言われていました。また、くだんの日野住職などは、なんと警官から「おいさん、ちょっと話聞かせてくれんか?」と職務質問されたこともあるそうです。
村上住職にしろ、日野住職にしろ、とても優しい顔をされています。北九州市の警察は暴力追放に日本一熱心なことで知られていますが、まったく失礼な話ですな!(笑)



今夜は、住職の方々から、これからの仏教界および冠婚葬祭業界について、貴重な御意見を頂戴しました。仏縁に生きる僧侶の方々との素晴らしい御縁を頂き、感謝の念でいっぱいです。みなさん、本当にありがとうございました。
なお、5月には名古屋で曹洞宗、6月には東京で日蓮系の仏教団体からも葬儀、グリーフケア隣人祭り、有縁社会などについての講演依頼が来ています。
ありがたいことです。時間が許す限りお話しさせていただきたいと思っています。
これも、「天下布礼」の大切な活動と考えています。朝目覚めると、「西日本新聞」朝刊の1面に『のこされた あなたへ』(佼成出版社)の書籍広告が出ていました。


西日本新聞」2月7日朝刊


2012年2月7日 一条真也