『世界一幸福な国デンマークの暮らし方』

一条真也です。

おはようございます。昨夜、金沢から小倉に帰ってきました。
『世界一幸福な国デンマークの暮らし方』千葉忠夫著(PHP新書)を読みました。
デンマークといえば、ワールドカップで日本が24日の深夜、あるいは25日の未明に激突する相手国ですね。
ブログ「幸福を呼ぶコイン」にも書きましたが、デンマークは、ここ数年で各種の調査で立て続けに「世界一」となり、非常に注目されています。たとえば、「幸福度世界一(2005年オランダでの調査)」、「世界一幸せな国(2006年英国レイセスター大学調査)」、「世界一格差のない国(2008年OECD発表)」、「高齢になるほど幸福度が増す国(2008年オックスフォード大学・将来の退職者調査)」といった具合にです。


                 アンデルセン童話を手がかりに


著者は東京生まれですが、1967年に福祉国家の実態を勉強するために渡欧し、デンマーク社会福祉の実践を学びます。
現地で社会福祉現場活動に従事した後、70年代に生涯の師となるバンクミケルセンと出会います。ノーマリゼーション実践の提唱者として知られる人物です。バンクミケルセン記念財団、および日欧文化交流学院を設立した著者は、それぞれの理事長や学院長に就任し、現在はデンマークのボーゲンセ市に在住しています。
2008年には、長年の「社会福祉における国際協力の推進」の功績によって外務大臣表彰されています。



最近、デンマークに関する本もたくさん出版されています。
でも、本書がユニークな点は、デンマークが生んだ偉大な童話作家であるアンデルセンの童話にちなんで「幸福」を考察しているところです。
著者は、「アンデルセンの童話にはその時代の社会と、生活している人びとの喜怒哀楽、望ましい未来社会を実現するための願望が描かれています」と述べています。



わたしも、拙著『涙は世界で一番小さな海』(三五館)で、幸福の追求者としてのアンデルセンを取り上げ、「人魚姫」と「マッチ売りの少女」という2つのアンデルセン童話の深い意味を探りました。
本書では、次のように6つの章を立て、アンデルセン童話から現代の問題を考えます。
「マッチ売りの少女が幸せになるためには〜貧困を考える」
はだかの王様のように騙されない〜政治を考える」
みにくいアヒルの子をいじめたのはなぜ?〜教育を考える」
「赤い靴は無責任の教え〜社会のあるべき姿を考える」
ナイチンゲールの歌声は介護の心〜福祉を考える」
「人魚姫の選択〜自律することを考える」



中には、あまりアンデルセン童話との関連が感じられないものもありますが、この目次構成そのものは非常に面白いと思いました。
アンデルセンが描いた未来社会は、160年という年月をかけて幸福度世界一の国デンマークをつくりあげました。
では、そもそも「幸福な国」とは何か。
それは「人々が生活しやすくて住みやすい国」であると、著者は明快に答えます。
さらに、アンデルセンと並んでデンマークを代表する人物といえば、同時代に活躍した哲学者のキルケゴールです。
彼は単独者の主体性こそが真理であると説き、いわゆる個人主義実存主義を唱えました。著者は、キルケゴールについて次のように書いています。
キルケゴールの思想もデンマーク社会福祉国家になった一つの要因といえるでしょう。社会と個人は相反するもののように思われますが、『個人を大切にすることが、個人の集まりで構成されている社会を大切にすることにつながる』のです。ならば当然のことながら、個人が住みよい社会であり、それが集まってできている国は、住みよい国といえるでしょう」
個人が集まって社会をつくり、社会の集まりが市町村や県となり、国となってゆく。
わたしたちは、みな住みよい国を求めています。
そして、この目的を達成するためには、国の構成員である国民一人ひとりが満足すべき状態になければならないというのです。
それにしても、「世界一幸福な国」の実現を支えているものが、童話と哲学だったとは!
なんだか、楽しくなってきますね。



最後に「世界一幸福な国」に1つだけ異論を言いたいと思います。
本書には、デンマーク人の面白い習慣として2つ紹介されています。
1つは、「湯船につかる」という習慣がないこと。
国内がオイルショックで節約志向になったとき、人々は湯船を捨てて、各家にはシャワーのみがあるそうです。
風呂は「温まるもの」から「体を清潔にするもの」へと合理的に変化したというのです。
もう1つは、写真の撮り方が日本の習慣とは違うこと。
写真を撮るとき、「はい、チーズ」と声をかけてポーズを取ることをせず、自然な姿でのスナップショットを撮る習慣があるというのです。
この写真の習慣は別に問題ありません。
というより、日本でも、最近はスナップショットのほうを好む人が増えています。結婚式などのアルバムでも同様です。
問題は、1つ目の習慣。湯船につからずシャワーのみのほうです。
日本人にとって、風呂は単に体を清潔にするだけのものではありません。
ゆったりと湯船につかることによって、心身をリラックスさせるためのものでもあります。
そして、風呂に入って一日の疲れを取ることは、日本人の幸福において大問題です。
温泉などに入ったときも、最初に口から出る言葉は、たいてい「幸せ」か「極楽」です。
ですから、「世界一幸福な国」デンマークを日本人が訪れた場合、ちょっと物足りないのではないでしょうか。些細なことのようで、意外に重要な問題ではないかと思います。


2010年6月24日 一条真也

葬式論争のゆくえ

一条真也です。

宗教界のオピニオンペーパーである「中外日報」が送られてきました。
シリーズ「死の儀礼の変貌」の中で、「波紋呼ぶ『葬式無用論』の出版」の大見出しで、島田裕巳著『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)についての仏教界の反論などを取り上げ、葬式論争を特集しています。


                  6月22日付「中外日報」より


その中で、「世論を分ける『無用論』と『有用論』」として、拙著『葬式は必要!』(双葉新書)も取り上げられています。
葬式についてのわたしのコメントもたくさん紹介していただいており、そのほとんどは著書に書いたことと同じですが、1点だけ従来とは視点が違う次のようなコメントを紹介していただきました。以下、「中外日報」6月22日号からの抜粋です。



「渦中の者として、こんなことを言うのも何ですが」と断わりながら、一条氏は「私は『葬式は、無用か必要か』という問題の立て方自体が間違っているのではないかと思います」と言う。
「法事法要、偲ぶ会、お別れ会の類が好きな人などいないでしょう。あえて言うなら、葬式も同じです。葬式や法事法要に集まる人というのは、別にそういった会が好きだから集まるわけではなく、亡くなった故人が好きだったから集まるのです。集まって、好きだった故人を偲ぶのです。大事なことは『葬式は、無用か必要か』ではありません。問題は『故人は、大切な人だったか』ということではないでしょうか」――こんなコメントを本紙に寄せている。(「中外日報」2010年6月22日号より)



他にも、島田裕巳氏や駒沢大学名誉教授の佐々木宏幹氏、また愛知・永正寺の水谷大定住職らがコメントを寄せています。
佐々木氏は日本におけるシャーマニズム研究の第一人者で、宗教哲学者の鎌田東二氏と『憑霊の人間学〜根源的宗教体験としてのシャーマニズム』(青弓社)という共著を出されています。
その佐々木氏は、仏教研究のエリートたちの仏教批判には「民衆からの視点」が欠けていると主張されています。わたしも、まったく同感です。
また、水谷住職は、寺主導で遺族本位の葬式を実現するために「葬儀改革」を打ち出しておられます。
水谷住職はまた、「寺が檀信徒のためにあるならば、『寺離れ』をするはずがありません。檀信徒に必要とされる寺になれば良いのです」と述べておられます。
また、禅宗の若き僧侶である泰丘良玄氏は、自身のブログに「葬式は必要!を読んで」という記事を書かれ、心強いエールを送って下さっています。
前向きに「葬式無用論」に立ち向かう僧侶の方々が増えてくれば頼もしいかぎりです。
僧侶といえば、日本で一番有名な僧侶である玄侑宗久氏が 「福島民報」6月13日号コラム「墓地共用のすすめ」で、『葬式は、要らない』と『葬式は必要!』を取り上げて下さいました。その中で、玄侑氏は「一条氏には申し訳ないが、どのような変化でも即ビジネスチャンスとして対応するのが商売として葬儀に携わる人々だろう。その究極の対応によって生まれたのが「直葬」という葬儀なき葬送である。」と述べられた後、次のように書かれています。
「むろん私は葬祭業界を非難するつもりではない。『無縁社会』が取り沙汰される現在、そうした人々にも誰かが対応するしかない。いわば戦後の核家族化や経済至上主義の必然的な結果として登場したのが葬儀無用論や直葬なのである。」
もちろん、わたしにも言いたいこと、あるいは説明させてほしいことは多々ありますが、玄侑氏のおっしゃられていることは正論だと思います。
冠婚葬祭業界に身を置く者は大いに傾聴すべきでしょう。


                「フューネラルビジネス」7月号書評


葬儀業界といえば、オピニオンマガジンである「フューネラルビジネス」7月号が「中外日報」と一緒に送られてきました。
今月号から、わたしの新連載「経営センスを磨く『力』十二則」がスタートしたのです。
ちなみに、第1回となる第一則とは「情報力」です。
同誌を購読ご希望の方は、綜合ユニコム株式会社[販売管理部]まで御連絡下さい。
(電話)03−3563−0025、(FAX)0120−05−2526です。
また、同誌の「ブックレビュー」には、『葬式は必要!』がトップで紹介されていました。
わたしの「葬式は贅沢で構わない」という反論と、その論拠である“いい意味での贅沢な葬儀”が「人間関係の贅沢につながっている」ことを取り上げてくれています。
また、ドラッカーの「継続」と「革新」を引き合いに「良いものはきちんと継続し、時代の変化に合わせて変えるべきところは革新する」ことが「葬式という文化にも欠かせない」という提言も、非常にコンパクトにまとめて紹介していただきました。
先日は、月刊「仏事」(鎌倉新書)や隔月刊「SOGI」(表現文化社)の最新号にも『葬式は必要!』の書評が出ました。
本当に、ありがたいことです。関係者の方々には心より感謝いたします。
思うに、多くの同業者の方々も『葬式は必要!』をお読みいただいているのではないでしょうか。ちなみに、アマゾン「マナー一般のベストセラー」ランキングを覗いたら、今でも『葬式は、要らない』と『葬式は必要!』が1位をめぐって争っています。
この葬式論争、まだまだ続きそうな気がします。お盆も近いですし。(微笑)


2010年6月24日 一条真也

『なぜ、デンマーク人は幸福な国をつくることに成功したのか』

一条真也です。

もうすぐ、ワールドカップ「日本vsデンマーク」の開戦ですね。
日本とデンマーク、どちらが勝つでしょうか?
それはさておき、『なぜ、デンマーク人は幸福な国をつくることに成功したのか どうして、日本では人が大切にされるシステムをつくれないのか』ケンジ・ステファン・スズキ著(合同出版)を読みました。
いやぁ、おそろしく長いタイトルですね。(笑)
著者はS.R.Aデンマーク、[風の学校]の代表で、日本とデンマークを往復しながら、さまざまな事業を手掛けるほか、講演活動などを積極的に行っている方です。


              デンマークを通して、日本社会を見つめ直す


ワールドカップの勝敗はまだわかりませんが、本書の内容では、日本は完全にデンマークに負けています。
本書で、わたしが最初に興味を抱いたのはデンマーク人の愛国心の強さです。
デンマーク愛国心世論調査をすると、80%以上の人々が「自分の国を愛している」と答えるそうです。独裁国家や、独立したての若い国ならともかく、デンマークのように長い歴史を持つ国で、こんなにも国を愛する人が多いとは驚きです。
著者は次のように述べています。
「もし、国家への愛情のあり方についてデンマーク人と日本人の間に大きな違いがあるとすれば、デンマーク人は[自国を愛するがために]高額な納税をし、国を守るために徴兵制度を導入し、中学生や高校生から政党活動・政治活動に参加しているのに対し、日本では『自分の国を愛している』と答える人でも、国家を維持するために必要な施策に自ら進んで参加する人は少なく、国家の基本方針を決める国政選挙でも極端に低い投票率しかありません」
デンマーク人は非常に国政への関心が高く、それは若者でも例外ではないそうです。
なにしろデンマークには、15歳頃から政党に加盟する子どもたちがいるというのです。
その背景には、デンマーク歴史教育があります。
デンマークの教育で最も重視されている科目は歴史です。
歴史教育の中から、自分が生れた国の生い立ちを知ることによって、現在に至る国家育成の過程を知るのです。
そして、その過程の中から国家を受け継ぐ次世代として何をすべきかを若者たちが考えるわけです。



国を愛する心が強ければ、国旗にも愛着が生れます。
著者がデンマークに入国して驚いたことの1つが、デンマーク人の国旗を掲揚する習慣でした。住宅にも農家にも、たいていは国旗を掲げる旗ざおがあります。そして、祝祭日はもちろん、家族の誕生日や結婚記念日などにも国旗を掲げるというのです。
どうやら、このあたりに「世界一幸福な国」の秘密がありそうですね。
誕生日や結婚記念日を祝う心があれば、それは自然と幸福につながるはずですから。
「ワールドカップ」での国旗掲揚の際、デンマーク人選手および日本人選手の態度をよく観察したいと思います。



愛国心が強いからといって、デンマーク人はけっして排他的ではありません。
もう一つ、デンマーク人には強い心があります。隣人愛です。
著者がデンマークで暮らしていると、『聖書』の言葉に基づく行動によく出遭うそうです。
それは、「ヤコブの手紙」2章8節の「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」、あるいは「マタイによる福音書」19章21節「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人びとに施しなさい」といった言葉です。
キリスト教の神の前では、すべての人は平等です。
そのため、金持ちも貧困者も社会福祉の恩恵を受けることにおいて差別されません。
たとえば、デンマーク地方自治体によって管理運営されている「介護センター」では、豊かな人も貧しい人も同じ施設で同じサービスを受けることができるそうです。
持っているお金の多さによって提供される「福祉サービス」が違うというシステムは、デンマークでは非常識な考え方なのです。
「どうして、日本では人が大切にされるシステムをつくれないのか?」
この問題を、すべての日本人は考えてみる必要があるでしょう。


2010年6月22日 一条真也