『弔いの日々』

一条真也です。

丸山登さんから『弔いの日々』(東洋館出版社)という著書を送っていただきました。
先日、京都で鎌田東二先生から紹介していただいた方で、「倫理」についての研究活動をサポートされています。

その丸山さんが書かれた『弔いの日々』は、まさに倫理の書でした。
「倫理」とは英語で「moral(モラル)」ですが、つまりは「人の道」ということです。
それは、古代中国で生まれた「礼」の思想に通じます。
「礼」を追求したのが孔子儒教でしたが、もともとは「葬礼」から生まれた思想でした。
母親が葬祭の仕事を営んでいた孔子は、誰よりも葬礼というものを重視しました。
その思想的後継者であった孟子は、人生の最重要事は「親の葬礼」としています。

丸山さんの書かれた『弔いの日々』も、親の葬礼の物語です。
明治生まれの母親を、戦後生まれの息子と家族はどのように弔ったのかが興味深く記されています。
葬儀、法要、納骨、位牌、仏壇、お浄め、お寺、檀家、遺言、遺品、形見分け、訃報、香典、服喪期間、墓地、彼岸・・・・伝統的な儀式や慣習に従いながら、主人公はその背景に流れる日本人の「こころの習慣」について考えます。
儀式という「かたち」の背後には、亡き母を想う息子の「こころ」がありました。
とにかく、喪家の立場から一連の葬送儀礼をここまで記録した本はないでしょう。
おくりびと”の立場からの記録なら、青木新門さんの『納棺夫日記』(文春文庫)をはじめ、珍しくありません。
しかし、葬儀を出す側の視点で、ここまで詳細に書かれたものは前代未聞です。

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丸山さんは、葬儀を含んだ冠婚葬祭という営みに大きな価値を置かれ、次のように書かれています。
「日本人は冠婚葬祭を社交の重要な手段として位置付けている。冠婚葬祭の上での義理を欠くと人間関係を損なうとする考えが現代でも強く残っている」
わたしが関心を持ったのは、主人公の母親である故人が互助会に入っており、「何かあれば互助会が全部やってくれるから」が口癖だったことです。
そして、母が亡くなった直後に連絡を取った互助会の社員は素晴らしいプロフェッショナルで、見事に喪家の葬儀コンサルタントとしての役割を果たしました。
例えば、お寺に払うお布施や場所を借りるお礼などをどうしたらよいかと相談すると、一般的な基準と寺の格式を耳打ちします。
その上で、「率直にお尋ねするのが一番です」と助言するのです。
告別式のとき、「弔電を読むのはなぜか」「あいさつは誰がするのか」「火葬場に行くときにお骨を持つのは誰か」などの常識的な質問に対しても、本来の仏教の慣習と、葬儀社の都合で慣習化したことを明確に区分けして説明します。
丸山さんが共同体に代わるものとしての互助会の役割をよく理解され、「相互扶助」という理念に深く共感されていることが非常に嬉しかったです。
いま、島田裕巳氏の『葬式は、要らない』が世間を騒がせていますが、今から14年も前の1996年に、丸山さんは『弔いの日々』に次のように書いています。
「確かに、葬式仏教と揶揄されるような悪しき俗臭ただよう宗教人の存在も無視できない事実であるが、大方の日本人は、家族の死を通して、故人と自分との間柄を問い直したり、人間存在の有限性を改めて確認する等、真摯な弔いの日々を送っているのである。」

本書は、倫理のプロによる「葬式は、要るか?」という問いへの見事な答になっています。そして、冠婚葬祭互助会が持つ社会的使命を大いに思い起こさせてくれる本です。
ぜひ、わが社の社員や業界の仲間にも本書を薦めたいと思います。

2010年2月26日 一条真也