「シャーロック・ホームズ」

一条真也です。

東京から「出版寅さん」こと内海準二さんがやって来ました。
内海さんには『葬式は必要!』『また会えるから』『幸せノート』と、同時並行で3冊の本を編集していただいています。その打ち合わせに小倉まで来てくれたのです。
もともと内海さんは小倉の出身で、お兄さんは小倉高校の出身です。そうです、わたしの先輩ですね。打ち合わせが終わった後、近くのチャチャタウンに寄りました。
そして、映画「シャーロック・ホームズ」を一緒に観ました。


とても観たかった映画でしたが、ちょっとイメージとは違う内容でした。映画通である内海さんによれば、「従来のホームズ映画とは一線も二線も画している」そうです。

でも、「オカルト」とか「格闘技」とか、わたし好みの題材がふんだんに盛り込まれていて嬉しかったです。
「オカルト」といえば、この映画には黒魔術を使う秘密結社が登場します。
おそらく「ゴールデン・ドーン(黄金の夜明け団)」あたりをイメージしているでしょうが、結社のマークにはコンパスが描かれていたので、「フリーメーソン」がモデルかも。
映画の舞台であるロンドンは、オカルトの都です。
シャーロック・ホームズ」シリーズの作者であるコナン・ドイルもオカルトを追求した人でした。もっともドイルの求めたオカルトは「心霊」であり、この映画に出てくるのは「魔術」のほうですが。
晩年のドイルがスピリチュアリズム心霊主義)の研究に没頭し、少女が撮影した写真によって妖精の存在を信じたことはよく知られていますね。



さて、「シャーロック・ホームズ」を生んだドイルは、言うまでもなく、推理小説の世界における最大の巨星です。
しかし彼は、怪奇小説の分野でも『霧の国』『マラコット深海』『毒ガス帯』などの名作を多く書いています。
さらには、SFの歴史に『失われた世界』という金字塔を打ち立てました。
つまり、コナン・ドイルとは、ミステリー・ホラー・SFという娯楽小説の三大ジャンルを制覇した作家なのです!
「エンターテインメントの三冠王」と呼んでもいいでしょう。

ミステリー・ホラー・SFには「非日常性」あるいは「幻想性」という共通点があります。
この三つのジャンルは、いずれもロンドンで誕生しました。
わたしは、それには理由があると思っています。
それは、ロンドンという都市が雨が多くて晴天の日が少ない「霧の都」だったからです。
霧が多いと、視界が制限されて、よく世界が見えないからです。
つまり、世界が見えにくいと、逆に見えない世界が見えてくるのではないでしょうか。
その意味では、日本の金沢も同じではないかと思います。
金沢は泉鏡花をはじめ、多くの幻想作家を生んだことで知られます。
そして、ロンドンと同じく、金沢も雨が多くて晴天の日が少ない「霧の都」なのです。



ところで、ホームズは犯罪のトリックを明らかにするために化学や物理をはじめ、さまざまな知識を駆使します。
いかにも彼は、あらゆる知識を持った博覧強記の人だと思えてきます。
しかし、じつは彼には知らないことがたくさんあるのです。
たとえば、彼は花の名前などをまったく知りません。
また『緋色の研究』では、なんと地動説を知らなくて、ワトソン博士を驚愕させます。
ワトソン博士から「地球が回っている」ことを講釈されますが、ホームズはすぐさま「捜査の役に立たない知識だから、すぐ忘れなくては」と発言するのです。
ホームズは、とにかく「犯罪研究」に自分自身を特化しているのです。
そして、知識における「選択と集中」を行っているわけです。
探偵は、依頼人のこれまでの人生や、死体が生きていた頃の様子など、「過去」に向けて推理を働かせます。
一方、格闘家は、相手が次に繰り出す技や、次にガードしてくる箇所など、「未来」に向けて推理を働かせます。
「過去」と「未来」の違いはあれど、推理するという営みにおいては同じですね。



シャーロック・ホームズには独特の推論形式があります。
ホームズは、やってきたクライアントの話を聞く前に、その人物の職業や来歴をぴたりと言い当てます。
この映画にも、「あなたは家庭教師をしていて、教え子は8歳の男の子ですね」と的中させるシーンが出てきます。
これは、どういう服を着ているかとか、その服のどこにインクの染みがあり、顔のどこに傷がついているかとか、具体的なデータを読んでいるわけです。
そのような細部の情報を組み合わせて、ホームズはその人のパーソナル・ヒストリーを想像の中で構成しているのです。
内田樹氏は『邪悪なものの鎮め方』(バジリコ)において、探偵の仕事について鋭く分析し、きわめて興味深いことを次のように指摘しています。
「探偵は一見して簡単に見える事件が、被害者と容疑者を長い宿命的な絆で結びつけていた複雑な事件であったことを明らかにする。読者たちはその鮮やかな推理からある種のカタルシスを感じる。それは探偵がそこで死んだ人が、どのようにしてこの場に至ったのかについて、長い物語を辛抱づよく語ってくれるからである。その人がこれまでどんな人生を送ってきたのか、どのような経歴を重ねてきたのか、どのような事情から、他ならぬこの場で、他ならぬこの人物と遭遇することになったのか。それを解き明かしていく作業が推理小説のクライマックスになるわけだが、これはほとんど葬送儀礼と変わらない。」

なんと、探偵の仕事が葬送儀礼と同じであったとは!!
これには、つねに葬儀の意味について考え続けているわたしも仰天しました。
内田氏は、さらに次のように書きます。
「死者について、その死者がなぜこの死にいたったのかということを細大漏らさず物語として再構築する。それが喪の儀礼において服喪者に求められる仕事である。私たちが古典的なタイプの殺人事件と名探偵による推理を繰り返し読んで倦まないのは、そのようにして事件が解決されるプロセスそのものが同時に死者に対する喪の儀礼として機能していることを直感しているからなのである。」

わたしは、行旅死亡人と呼ばれる人々のことを思い浮かべました。
氏名も職業も住所もわからない行き倒れの死者たちです。
いわゆる「無縁死」で亡くなる人々です。
そんな死者が、なんと日本に年間3万2000人もいるというのです!
明日、自宅の近くの路上にそんな死者が倒れている可能性がないとは言えません。
その人が何者で、どのような人生を歩んできたのか。
それを、みんなで推理しなければならないのが無縁社会です。
わたしたちは、「一億総シャーロック・ホームズ」の時代を生きているのかもしれません。


この映画では、格闘技の達人としてのホームズが描かれています。
たしか『シャーロック・ホームズの冒険』で、彼が柔術の使い手であると書かれていたように記憶しています。
それはともかく、格闘の場面で彼が使う頭脳の働きは逆のベクトルではありますが、本業である探偵の推理によく似ています。




           一億総シャーロック・ホームズの時代(撮影:内海準二)                 


2010年3月21日 一条真也