「君の瞳に恋してる」

一条真也です。

気がつけば、このブログも99本目になりました。
いよいよ次は100本目です。はい。
ところで前回のブログで、野嶋康敬君のことを書いたら、学生時代を思い出しました。
早稲田に入学が決まって上京したわたしは、最初に六本木に住みました。
思えば、当時はディスコの全盛時代でしたね。
ほとんどの店はすべて住居から5分以内のところにありました。
大学に入る前、初めて六本木のディスコに入りました。
たしか、スクエアビルの「ギゼ」という店でした。
それまでは小倉に住んでいましたので、小倉に一つしかない「フェニックス」というディスコしか行ったことがありませんでした。
そこは、ラッツ・アンド・スターの「め組のひと」や、チークタイムに小林明子の「恋におちて」がしっかりかかるディスコでした。
ですから、昔から東京に住んでいた連中がよく行ったという「キサナドゥ」とか「キス・レディオ」などはまったく知りませんでした。



わたしがよく行ったのは「キサナドゥ」の後にできた「ナバーナ」でした。
ここは当時、早稲田の遊び人の連中のたまり場になっていて、行くと必ず誰かがいました。後に映画「バブルへGO!!」の製作に関わり、当時の六本木のフィーバーぶりを再現してくれた一木広治さんが中心人物でしたね。
一木さんは、わたしの一年先輩で、早稲田高等学院の出身でした。現在は、USENグループのTOKYOヘッドライン社長を務めています。わたしも、早稲田の同級生たちと「パニック」というイベント・サークルを作って「ナバーナ」に集結しました。
早稲田以外でも、慶應上智といった他大学の学生たちとも遊びました。
小倉高校の同級生である上村紙業社長の上村篤弘君(慶應)やトップ保険サービス社長の野嶋君(上智)なども来ていました。
他にも顔見知りの女子大生もたくさんできて、九州から出てきた堅物の大学1年生にとって、「ナバーナ」はちょっとした社交場となったのです。
特に「金ナバ」と呼ばれた金曜日は、もろもろの知り合いが一堂に会し、最高に盛り上がりました。まるで夢のような時代でしたね。



当時、「ナバーナ」で流れていたヒットナンバーは、マイケル・ジャクソンの「ビート・イット」や「ビリー・ジーン」をはじめ、アート・アタックの「マンドレイ」、ゲーリーズ・ギャングの「メイキン・ミュージック」、NVの「イッッ・オーライト」、ハービー・ハンコックの「ロック・イット」、シャノンの「レット・ザ・ミュージック・プレイ」、ディヴァインの「ラブ・リアクション」、ザ・トゥインズの「フェイス・トゥ・フェイスーーハート・トゥ・ハート」などで、へーゼル・ディーンの「サーチン」、フリーズ「I・O・U」でだんだん盛り上がり、ミケル・ブラウンの「ソウ・メニイ・メン・ソウ・リトル・タイム」でピークを迎えました。
みんなで円陣をつくって向かい合い、「パカパカッパ」というかけ声をかけ合いました。
今から思えば、何と平和な時代だったのでしょう!
「ナバーナ」で踊っている時に、わたしは「生」の実感を強くおぼえました。
そして、当時の最大のヒットナンバーであり、わたしが一番好きだった曲。
それは、ボーイズ・タウン・ギャングの「君の瞳に恋してる」です!


これまでの人生において、こんなにシビれた曲はありません。
そう、「君の瞳に恋してる」こそは、わたしの青春の一曲なのです!
「ナバーナ」以外でよく行ったディスコは、「マジック」、「ザ・ビー」、「パシャ・クラブ」、「ネオ・ジャパネスク・雅」、「プレステージ」、「ラジャコート」などでした。
ディスコに不慣れな友人を連れて行くときは「ウィズ」とか「メイキャップ」にしました。
それらの店でも、すべて「君の瞳に恋してる」が流れました。
そして、「君の瞳に恋してる」のイントロを聴いた瞬間に、わたしの心はトキメキました。
その後、アメリカ映画「ディア・ハンター」で使用されたことがありましたが、やはり素晴らしかったです。ベトナム戦争を題材とした作品でしたが、悲惨な戦争と底抜けに明るいラブソングの対比が絶妙でした。



その後、大学を卒業してしばらく東京で仕事をした後、わたしは小倉に戻りました。
それから、早稲田の学生を中心に「スーパーフリー事件」という犯罪が起きました。
それ以来、なんとなく学生時代の六本木の思い出を語るのがはばかられる気がして、触れることが少なくなりました。
でも、純粋に人と集まるのが楽しくてディスコに集い、夢中で踊っていたわたしたちの思い出を消すことは誰にもできません。
今日、久々に「君の瞳に恋してる」を聴き、あの頃の光景がよみがえってきました。
あの頃のトキメキがよみがえってきました。
そして、あの頃の仲間に無性に会いたくなりました。
音楽って、タイムマシンなんですね!


2010年3月22日 一条真也