陽にとらえる

一条真也です。

深夜、書斎で一人、マッカランオン・ザ・ロックで飲んでいます。
「SOGI」編集長の碑文谷創さんから言われた「もっと、たどたどしく死を語ったほうがいい気がする」という言葉が頭に浮かんできました。
碑文谷さんは、どうやら、わたしの能天気なところに違和感があるようです。
たしかに、そうかもしれません。
碑文谷さんをはじめ多くの方々から指摘されるのですが、わたしの「死」についての考えは『葬式は必要!』(双葉新書)の「まえがき」の次の言葉に集約されています。
「日本人は人が亡くなると『不幸があった』などといいますが、死なない人はいません。どんな素晴らしい生き方をしようが、すべての人が最後に不幸になるというのは、絶対におかしいとわたしは思います。人生を負け戦にしてはなりません」



もう、20年以上も前から、わたしはこの言葉を使っています。
最近、京都在住の新進気鋭の美学研究家である秋丸知貴さんからメールをいただいたのですが、次のような一文がありました。
「改めて強く感銘を受けたのは、一条先生のご著書は、『魂をデザインする』にしても、『ロマンティック・デス』にしてもそうですが、全て本当に明るくて健康的なところです。これは、本来は真当すぎるほど真当なのですが、現実には一つの『奇跡』に思えます。(中略)『葬式は必要!』もそうですが、葬儀や臨死体験など、一歩扱い方を間違えると極めてオドロオドロしくなる話題が、一条先生の筆にかかれば、あくまでも一般的な社会問題の水準で人々に受け容れられる傾向があることは極めて貴重だと思います」
秋丸さんが言われるように、わたしは明るくて健康的なのでしょうか。
自分では、よくわかりません。
昔、学生の頃に「ネクラ」「ネアカ」という言葉が流行していました。
根が暗い者、明るい者という意味ですね。
また、一時は「ネオモ」「ネカル」という言葉も使われました。
根が重い者、軽い者という意味です。
自分で「ネクラ」とは思わないのですが、「ネオモ」かもしれないというのは認めます。
どんな問題でも軽く考えられず、その本質について深く考え込んでしまうからです。



ただ、どんなときでも、ポジティヴ思考をする癖はあるようです。
これは、父である佐久間進サンレー会長の影響だと思います。
佐久間会長は、いつも「何事も陽にとらえる」というのを口癖にしています。
その考えが、「サンレー」つまり「太陽の光」という社名につながりました。
何事も陽にとらえるなら、その対象が「死」であっても同じことです。
だいたい、「死」を陰にとらえたら救いがありませんよね。
「死」や「病」や「老」といった、ネガティヴな記号を貼り付けられているものにこそ「陽にとらえる」発想が必要なのだと思います。
ということで、「死」をポジティヴにとらえたり、あろうことかロマンティックに表現するという一条真也の流儀は、完全に父親譲りの「サンレー思想」そのものかもしれません。



あと、間違いないのは、わたしがオッチョコチョイだということです。
わたしほどオッチョコチョイな人間はいないのではと自分でも思います。
だって、映画「おくりびと」が話題になった直後に『むすびびと』を出したり、世間を騒がせた『葬式は、要らない』の後には『葬式は必要!』ですよ。
わっはっは。日本中さがしても、こんなオッチョコチョイはいませんよ。ほんと。
でも、いくらオッチョコチョイでも、卑怯な人間や浅はかな人間にはなりたくないです。
けっして悪い奴ではありませんので、これからも、よろしくお願いいたします!


                   オッチョコチョイでござんす!


2010年5月3日 一条真也