『わたしが死について語るなら』

一条真也です。

今日、新しい「ムーンサルトレター」がUPしました。第57信です。
鎌田東二さんが、拙著『葬式は必要!』(双葉新書)についてコメントしてくれています。
どうも、ありがとうございました。また、ブログ「陽にとらえる」で紹介した京都の美学研究家である秋丸知貴さんから、再度のメールが来ました。
昨今の葬式が必要か不要かという論議にとって、きわめて傾聴すべき意見だと思いましたので、ご本人の了承を得て、以下に紹介させていただきます。
「私は、『陰気』な問題を『陰気』に語ることは誰にでも出来ますが、やはり、『陰気』な問題を『陽気』に語ることが出来るのは、一つの才能であり数少ない奇跡だと思います。私が前回、一条先生に用いさせて頂いた『明るくて健康的』という言葉は、一つは『ポジティヴ思考』を感じるということであり、もう一つは『志』を感じるということです。恐らく、死や葬式有用論を、『陰気』に『もっと、たどたどしく』語る方は、これから遅れてもっと数多く出てくるでしょう。しかし、まず一条先生が先陣を切り、いち早く『陰気』な問題を『陽気』に広く公の場に開いたところが、今回の『葬式は必要!』の画期的な重要性だと思います。個人的には、『陽気』と『陰気』の両方から、葬式有用論が活発になることが極めて望ましいと考えています」

わたしの才能うんぬんなどはどうでもよいのですが、最後の「『陽気』と『陰気』の両方から、葬式有用論が活発になることが極めて望ましい」というのは重要な指摘です。
わたしも、まったく同感です。秋丸さんは、ユダヤ人思想家のヴァルター・ベンヤミンなどの論文を書かれていますが、その鋭い着眼点と分析力にはいつも敬服しています。

ところで、他の方はどのように「死」を語っているのだろうかと思いました。
まずは、日本を代表する宗教学者である山折哲雄先生の『わたしが死について語るなら』(ポプラ社)を読んでみました。


               むずかしいテーマをやさしく語る


この本、アマゾンで購入したのですが、同じポプラ社から『わたしが死について語るなら』と『未来の大人へ語る わたしが死について語るなら』の2冊が刊行されていたので、わたしは2冊とも注文しました。
きっと、前者は大人向き、後者は(14歳くらいの)児童向きで、内容は違うだろうと思っていたのです。ところが、なんと2冊は同じ内容でした。
前者の最後には、こう書かれていました。
「本書は、児童向けに刊行された『未来の大人へ語る わたしが死について語るなら』(ポプラ社刊)を内容はほとんどそのままに、一部ルビをつけ直したりして年長者向けに、編集し直した作品です」
あちゃー、2冊も買うことはなかった!
別に出版社を責めても仕方ないですが、こういうところがネット書店で本を買う落とし穴ですね。リアル書店なら、すぐさま2冊の内容が同じだということがわかりますから。



それで、わたしは年長者向きを読んだのですが、児童向きとしても刊行されていただけあって非常に読みやすかったです。
それでいて「死」という難しいテーマを正面から扱っています。
ある若者が、著者にこう言ったそうです。
「死について語るときは、宗教的な言葉を使わないで説明してください」と。
宗教的イメージや宗教的な言葉を使わずに、「死」の問題を語ることは非常に難しいのですが、著者は宗教ではなく文学の言葉を使うことを提案します。
特に、北原白秋宮沢賢治金子みすゞらの詩に注目します。
わたしも拙著『ロマンティック・デス〜月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫)で述べたように、「死」と「詩」は通じ合っていますから、著者の提案は正しいと思います。
また、著者は子どもたちに「生きる」意味だけでなく、「死ぬ」意味を教える必要があると主張します。「共に生きる」という口当たりのよい言葉だけでなく、「共に死ぬ」ことも教えないといけないというのです。
たしかに、子殺し、親殺しを含めた残酷な事件が多く発生する中で、「いのち」の教育が最優先であることは言うまでもありません。しかし、多くの者が「いのち=生きる」ことだと思い込んでいるのが最大の誤解です。「いのち=生きる+死ぬ」という当たり前のことを一刻も早く日本人全員が悟らなければなりません。
それから、著者は「死を敗北ではない」と訴えます。
人間が死ぬのはごく当然のことなのです。
でも、病気の治療に当たっている医師の多くが「死」を医療の敗北だととらえているため、その意識が一般人にまで広まっている。それは、おかしいというのです。
この点も、わたしは100パーセント、著者の意見と同じです。



さらに著者は、葬式についても考えを述べています。
少年時代に、著者の祖父が亡くなりました。
それは、初めての親しい人間の死でしたが、著者は次のように書いています。
「祖父が死んでいくとき、私は怖かった。何か祖父が異物に化身していくように感じられました。人間が得体の知れないものに変化していくような。だから葬式をして、荼毘に付したとき、もう異物となった祖父が帰ってこないと思い、けじめがついた気がしました」
さすがは山折先生、生き残る者にとっての葬式の意味を端的に表現しておられます。
しかし、昨今の葬式に対する苦言も呈しています。
たとえば、故人が元気だった頃の写真を大きく掲げて、それに対してお別れをする会のような葬儀が多いというのです。
かつては、葬儀で掲げられる写真も喪服をつけて、生きているのか死んでいるのかわからないような中間の表情をしたものが選ばれていたとして、次のように述べます。
「私は、葬儀や告別式におけるああいう写真を見ていると、今の葬儀は死者を送る儀式にはなっておらず、別れの儀式とも違うのではと思ってしまうのです。死んだ人間の、生きているときの面影をこの世にとどめておこうという、生き残った者のエゴイズムの感情がそこに漂っているように感じるのです。そこには『死』を受け入れ死者を他界に送りとどけようとする気持ちというよりは、むしろ生き残っている者の生に執着する気持ちを感じてしまうのです」
たしかに、葬儀においては、生き残る者の都合よりも、死者を他界に送り届けることが優先されなければなりません。著者の問題提起は、実際に冠婚葬祭業界に身を置くわたしとしても、深く考えたいと思います。
ちなみに、浄土真宗の僧侶の子であった著者自身は、亡くなったら故郷の寺に入るのでなく、「散骨」にしてほしいと頼んでいるそうです。
死ぬことは自然に帰ることだと思っているからで、自分の遺灰を海や山や川に少しづつ撒いてほしいというのです。
「死」と「葬」については、各人がいろんな考え方を持ってよいと思います。
この「散骨」もまた、著者にとっては、「あの人らしかったね」と言われるお別れの仕方でしょうから。



わたしは、もう20年近くも前に「葬儀」をテーマに著者と対談させていただきました。
そのとき、まだ28歳くらいでしたので、著名な宗教学者を相手に緊張したことを記憶しています。山折哲雄先生以外にも、山口昌男先生、井上章一先生、横尾忠則先生といった錚々たる方々の胸をお借りして、対談させていただきました。
現在は義兄弟の仲である鎌田東二さんとの最初の出会いもこの時でした。
それにしても、30にもならない若造が、こんな凄い先生方と語り合ったなんて夢のようです。それらの対談は、すべて『魂をデザインする〜葬儀とは何か』(国書刊行会)という、1992年刊行の本に収められています。
秋丸知貴さんや佐藤修さんなどが指摘されるように、『葬式は必要!』の原点といえば、『魂をデザインする』かもしれません。


                      葬儀とは何か
 

2010年5月3日 一条真也