「街の灯り」

一条真也です。

東京に来ています。
おかげさまで、『葬式は必要!』(双葉新書)の増刷が決定しました。
双葉社編集部の池永昌靖さんによれば、まだまだ部数は伸びそうとのこと。
池永さんと「出版寅さん」こと内海準二さんと一緒に赤坂見附で祝杯をあげました。
食事の後、「東京の止まり木」ことカラオケ・スナック「DAN」に乗り込みました。
池永さんは忌野清志郎の「雨上がりの夜空に」を歌いました。
内海さんは案の定、堺正章の「さらば恋人」を歌いました。
それで、わたしは同じく堺正章の「街の灯り」を歌いました。
よく社員の結婚式などで歌うナンバーです。


「灯」という言葉を聞くと、心が本当に明るくなるような気がします。
そんなに眩い明るさではありません。
ほんの少しだけ目の前が明るくなるような気がして、ほっとするのです。
チャップリン映画の題名にもなった「街の灯」という言葉の響きには、何とも言えない温かさ、はかなさ、そして、なつかしさが込められています。
映画「街の灯」は、やさしい浮浪者チャーリーが、目の不自由な花売り娘に情をかけるというハートフル・ストーリーです。
まさに人間の「善」なる部分を描いた名作だと言えるでしょう。


街の灯は、一軒一軒の家の灯からなっています。
マイケル・ファラデーの古典的名著『ロウソクの科学』(三石厳訳・角川文庫)の序文で、イギリスの科学者ウイリアム・クルックスは、「人間が暗夜にその家を照らす方法は、ただちにその人間の文明の尺度を刻む」と述べています。
さまざまな方法たちが、文明の尺度を刻んできました。エトルリア人のランプは精巧でもその役目を果たしかね、鯨やアザラシや熊の油はエスキモー人の小屋を光よりも悪臭で満たし、巨大なワックスロウソクはきらびやかな祭壇を照らし、ガス灯はロンドンをはじめとした都市に並んで列をなしました。
クルックスは、これらのすべてが語るべき物語をもっていると考えました。
そして、次のように述べています。
「もしも彼らに口がきけたなら、そして、それは彼ら自身の方法でできるのであるが、これらすべての灯火は人類の愉楽、家庭愛、勤労、そしてまた信仰にいかに奉仕したかを語って、われわれの心をあたためてくれるであろう」



そう、灯の下には必ず人間がいます。
フランスの作家で飛行士でもあったサン=テグジュペリは、アルゼンチンにおける自身の最初の夜間飛行の晩の景観について著書『人間の土地』(堀口大學訳・新潮文庫)に書いています。
星影のように、平野のそこここに、無数のともしびが灯る暗夜の光景について、彼は次のように感動的に記しています。
「あのともしびの一つ一つは、見わたすかぎり一面の闇の大海原の中にも、なお人間の心という奇跡が存在することを示していた。あの一軒では、読書したり、思索したり、打明け話をしたり、この一軒では、空間の計測を試みたり、アンドロメダの星雲に関する計算に没頭しているかもしれなかった。また、かしこの家で、人は愛しているかもしれなかった。それぞれの糧を求めて、それらのともしびは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っていた。中には、詩人の、教師の、大工さんのともしびと思しい、いともつつましやかなのも認められた。しかしまた他方、これらの生きた星々のあいだにまじって、閉ざされた窓々、消えた星々、眠る人々がなんとおびただしく存在することだろう」
この直後に、サン=テグジュペリは「努めなければならないのは、自分を完成することだ」と言っています。そして、「山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じ合うことだ」とも。
ほろ酔いのわたしの目に、赤坂見附の街の灯が優しく映りました。


               ともしびたちと心を通じ合わせるために



2010年5月13日 一条真也