福澤諭吉記念館

一条真也です。

福澤諭吉旧居」に続いて、敷地内の「福澤諭吉記念館」を訪れました。
想像以上に展示物が豊富で、興味深かったです。
館内に入ると、諭吉の銅像が迎えてくれました。


                    福澤諭吉銅像

                    一万円札の1号券


また、日本銀行より中津市に寄贈された一万円札の1号券も展示されていました。
若き諭吉がアメリカに渡った咸臨丸の模型もありました。
わたしは、咸臨丸というと、いつも吉田松陰のことを思います。
幕末に黒船が来たとき、多くの若き武士たちが国を憂いました。
そして、多くの若者が船に乗ってアメリカに渡りたい、世界を見たいと願いました。
しかし、松陰は密航で黒船に乗り込む、いわゆる「下田渡海」を計画して失敗します。
そして、その直情径行の性格ゆえに、松陰は若き命を散らせてしまいます。
一方、松陰と同じように船に乗って世界を見たいと願った諭吉は、勝海舟の咸臨丸に合法的に乗り込み、自らの夢を実現します。
松陰と諭吉、どちらが優れているということはありませんが、こと夢を実現するという現実的な実行力に関しては諭吉に軍配を上げざるを得ないでしょう。


                     咸臨丸の模型

                  興味深い展示物ばかりでした


また、松陰が主宰した「松下村塾」は高杉晋作や久坂玄端といった多くの俊才を育てながらも、今では史跡の一つにすぎません。
しかし、諭吉が主宰した「慶應義塾」は、どうか。「私学の雄」たる慶應義塾大学として発展し、現代日本における影響力の大きさは言うまでもないでしょう。
慶應と並ぶ「私学の雄」といえば、大隈重信が創設した早稲田大学です。早稲田出身のわたしは、慶應義塾創始者である福澤諭吉にはさほど関心がありませんでした。
それどころか、儒学の批判者として、あまり良いイメージを抱いてはいませんでした。
子どもの頃に、主君の名前が書いてある紙をまたいだり、神社の祠の中を暴いたりといった「目に見えないもの」に敬意を払わないエピソードも大嫌いでした。
しかし、近代日本をデザインした巨人としての存在感は認めなければなりません。


                   『学問のすゝめ』を指さす

               これが、明治時代最大のベストセラーだ!


諭吉が書いた『学問のすゝめ』は、当時の日本人に大きな影響を与えました。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」の一節は非常に有名です。
『学問のすゝめ』は、最初は17冊の分冊でしたが、後に1冊に合本されました。
その前書きによると初出版以来8年間で合計約70万冊が売れ、最終的には300万部以上売れたそうです。当時の日本の人口が3000万人ぐらいでしたから、じつに日本人の10人に1人が読んだことになります。現在のような大規模な流通販路もなく、広告宣伝なども難しかった時代において、驚異としか表現できません。
まさに、『学問のすゝめ』は明治時代最大のベストセラーでした。



ピーター・ドラッカーは、近代国家としての日本を創った人物として福沢諭吉渋沢栄一岩崎弥太郎の3人をあげています。そして、福沢諭吉を「実務家」、渋沢栄一を「倫理家」、岩崎弥太郎を「起業家」と呼んでいます。
ドラッカーは、日本の明治維新に大きな関心を抱いていました。世界史上で最も成功した「社会的イノベーション」であると高く評価しています。この社会的イノベーションがあったからこそ、3人は新しい日本をデザインすることができたのです。


2010年10月26日 一条真也