宇佐神宮

一条真也です。

昨日の宗像大社に続き、今日も九州を代表する神社である宇佐神宮を参拝しました。
「九州を代表する神社」というより、全国でその数4万にものぼる「八幡神社の総本社」というべきでしょうか。宇佐神宮は「宇佐八幡」とも呼ばれます。


宇佐神宮を参拝しました

全国最多の八幡神社の総本社です


この宇佐神宮の神は、日本の宗教史において大変な役割を果たしました。かつて、神道そのもの、つまり日本の八百万の神々を救ったことがあるのです!日本列島にいた古代人たちは自然を崇拝し、畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れて汚さないようにしました。自然に対するシンプルな畏れの儀礼化。それが、神道でした。さし昇ってくる朝日に手を合わす。森の主の住む大きな楠にも手を合わす。台風にも火山の噴火にも大地震にも、自然が与える偉大な力を感じとって手を合わす心。自然の営みのリズムそのものの発動、地球の律動の現われに対する深い畏怖の念を、あらゆるネイティブな文化と同様に神道も持っていました。
ネイティブ・アメリカンはそれを「グレート・スピリット」つまり「自然の大霊」といい、神道ではそれを「八百万の神々」といいました。
長いあいだ自然をもって神々としてきた日本人でしたが、仏教が渡来したとき、従来の神々が淡白過ぎ、迫力に欠けることを思わざるをえませんでした。


自然をもって神々とするのが神道です


552年の仏教渡来のことは、『日本書紀』に書かれています。百済から金銅の釈迦像一体と経論・仏具などがもたらされました。贈った側の使者が、「この法は、周公・孔子も知り給わなかった」と重々しく述べ、「福徳果報を生す」とも言いました。本来「空」であるべき仏教について、いきなり現世利益を説くのは奇妙ですが、いまさら6世紀の外国使者に文句を言ってもはじまりません。それ以上に当時の日本人を驚かせたのは、彫刻でした。
6世紀といえば、古墳におさめるための埴輪がしきりに生産されている時代です。その程度の技術しか持たなかったこの時代に、生けるが如き人体彫刻が、釈迦像の形をとってもたらされたのです。しかも、鋳銅に金メッキがほどこされていました。金メッキを見たのもこのときが初めてであり、当時の欽明天皇は非常に驚いたそうです。ブッダの頃のインド仏教には、仏像はありませんでした。金銅仏を含めた仏像がガンダーラで初めてつくられたのは、2世紀頃とされています。つまり、なんと400年もかかって、仏像は日本に来たわけです。


大橋の前で


大和の朝廷では神道派が反対しましたが、その後曲折を経て、この世紀の終わりには大和の斑鳩の地に法隆寺が造営されるまでに盛んになりました。神は没落し、「日本の神々は迷っている」というのが鎮護国家の仏教を受容した奈良時代の僧たちの見方であったようです。僧たちは、神々にありがたい経を聞かせて救おうとしました。仏は上で、神は下だったのです。そういう高々とした態度であちこちの有力な神社に祭神を済度するための神宮寺がつくられ、そのことで神々は没落をまぬがれたのです。



ここに、八幡神という異様な神が現われます。後世、津々浦々に八幡社が建てられますが、奈良時代までは豊前国の宇佐にしかこの神はなかったのです。
現在では4万社を数える八幡信仰の発祥地こそ、この宇佐でした。宇佐には、渡来人の小集団が住んでいました。秦氏の一派だったようです。秦氏は『日本書紀』などによると、遠く秦の始皇帝の後裔と称していました。
秦の滅亡後、流浪して朝鮮半島漢帝国領である楽浪・帯方郡にいたようで、5世紀のはじめ頃に渡来しました。農民の集団ながら、異文化の匂いがありました。


いろいろと御祈願しました

本当に立派な社殿です 

                 
仏教渡来の世紀である6世紀の半ば過ぎ、宇佐の秦氏の集団の中で、「八幡神」という異国めいた神が涌出しました。この神は風変わりなことにシャーマンである巫女の口を借りてしきりに託宣を述べました。それももっぱら国政に関することばかりで、「よほど中央政界が好きな神のようであった」と、司馬遼太郎は『この国のかたち』に皮肉たっぷりに書いています。それまで大和にもシャーマンはいましたが、八幡神のように政治好きではありませんでした。この神は571年に湧出したとき、「われは誉田天皇応神天皇)である」と名乗りました。最初から人格神だったことで、当時の他の古神道の神々と異なっていました。このあたりにも異文化の匂いがプンプンしていますね。この名乗りによって、大和の宮廷は無視できなくなりました。


神社はパワースポットです!


仏教が盛んになると、その神は「昔、われはインドの霊神なり。今は日本の大神なり」と託宣しました。なんと、もともとは仏教の発祥地であるインドの神であったと宣言し、新時代に調和したのです。聖武天皇は仏教をもって立国の思想としようとしただけに八幡神の仏教好きをよろこび、738年、宇佐の境内に勅願によって弥勒寺を建立させました。これが、「神宮寺」のはじまりになります。
シャーマニズム八幡神アニミズム八百万の神々を新時代へ先導しはじめたのであり、世界宗教史上きわめて珍しい出来事だと言えるでしょう。このように、宇佐の八幡神神道と仏教を結び、ともに日本人の「こころ」の二本柱としたのです。わたしは、このことを知り、かつて「宇佐の地で大和のこころ救はれり 神と仏を結ぶ八幡」という短歌を詠んで、宇佐神宮に奉納しました。


宇佐紫雲閣の前で


宇佐神宮を出発した後は、わが社の施設である宇佐紫雲閣に立ち寄りました。
それから、小倉のサンレー本社へと戻ったのであります。連日、宗像大社宇佐神宮と参拝して、なんだか心身ともに洗われたような気がしました。明日は、早朝から京都経由で金沢へと向かいます。


2010年10月26日 一条真也