平野啓一郎講演会

一条真也です。

西日本工業倶楽部で、作家の平野啓一郎さんの講演を聴きました。
講演のタイトルは、「風景の中の海、山、工場」でした。
韓国を代表する文芸評論家である崔元植さんとの対話形式で進められました。
北九州市で開かれている「日中韓東アジア文学フォーラム」の一環だそうです。


                      平野啓一郎さん
  

平野さんは、1975年に愛知県で生まれました。
お父さんが早く亡くなられたため、お母さんの故郷である北九州市の八幡で育ちました。地元の明治学園中学・高校を経て、京都大学に進学されています。
わたしは、平野さんが『日蝕』でデビューし、当時最年少で芥川賞を取ったときから注目していました。なにしろ、『日蝕』は中世ヨーロッパにおける錬金術という、わたし好みのテーマです。また、第2作の『一月物語』は、わたしの大好きな泉鏡花の『高野聖』を彷彿とさせる作品でした。その後に書いた大作長編のタイトルが『葬送』というのですから、これはもう注目しないわけにはいかないじゃないですか!(笑)


                  平野さんの著書をめぐって

                  WBS「スミスの本棚」より


また、平野さんとは不思議な縁があります。
わたしは、昨年、読書法の本を書きました。執筆にあたり、巷で流行している速読法とかフォトリーディングなるものに強い違和感を感じたわたしは、平野さんの著書『本の読み方 スロー・リーディングの実践』(PHP新書)に共感しました。
また、そのことを拙著『あらゆる本が面白く読める方法』(三五館)に書いたのです。
また、『本の読み方』が刊行されて間もなく拙著『世界をつくった八大聖人』が同じPHP新書として刊行されたこともあり、親近感を抱いていました。
さらには、4月にテレビ東京「ワールド・ビジネス・サテライト(WBS)」内の企画「スミスの本棚 ANNEX」で、わたしは平野さんと一緒に“読書の達人”として紹介されました。もう一人、書評家として松岡正剛さんも取り上げられていました。
詳しくは、ブログ「WBS」をお読み下さい。
講演後に講師控室でお会いしたわたしは、平野さんにそのことをお伝えしました。
世界をつくった八大聖人』と『あらゆる本が面白く読める方法』の2冊もお渡ししました。
平野さんは、丁重に「拝読させていただきます」と言って下さいました。
その礼儀正しさに、わたしは、ますます平野ファンになってしまいました。



                 故郷の海、山、工場を語る平野さん


さて、今日の講演ですが、平野さんの記憶に残る「海」とは洞海湾であり、「山」とは皿倉山だとか。また、八幡の本庄に住んでいた平野さんは、明治学園への通学に折尾駅を利用していたそうですが、車窓に映る光景は、ひたすら「工場」だったそうです。
それで、「ああ、自分は工業都市の子どもなんだ」と実感したとか。
彼が中高生だった時代は、北九州市がまさに「鉄冷え」と呼ばれていました。
わたしたちの頃には、教科書の「4大工業地帯」には北九州が入っていましたが、平野さんの頃には北九州は脱落し、「3大工業地帯」に書き換えられていました。
そんな中で、彼は「歴史的な役割を終えた街で生きていく少年」だと自覚しました。
その自覚は、自己の存在の希薄さにつながり、「明日、自分が消えても、日本は何も変わらない」と思ったそうです。
その感覚は、酒鬼薔薇聖斗の「透明な存在」にも通じていたといいます。
「東京の繁栄に対して、自分は田舎で何をやっているんだ」という少年は鉄冷えの工業地帯だけではなく、日本全国にいます。彼らが住んでいるのは農村だったり、漁村だったりするかもしれません。しかし、そういった自分が生まれ育った環境が、本の読み方、ひいては文学との関わり方に影響するのだというのです。
「東京のど真ん中で文学をはじめた作家」と「工業都市で文学をはじめた作家」とでは明らかに世界が違います。最も愛読する作家が三島由紀夫トーマス・マンであるという平野さんには、貴族趣味のかけらもない工場の風景はどう映ったのでしょうか。



平野さんは、ずっと故郷が好きになれなかったといいます。
東筑高校の先輩や、地元の出身者から「同じ北九州の仲間ぞ!」とか言われて肩を組まれたりするのが苦手で、正直言って「うっとうしい」と感じたそうです。
しかし、芥川賞を受賞して「作家」という肩書きを得てからは、不思議と故郷に対する愛着も湧いてきて、地元の人と親しく接することも嫌ではなくなったとか。
要するに、その土地の飲み込まれてしまうことには反発するのだけれども、いったん自分のアイデンティテイを確立してしまえば余裕ができるのでしょう。



平野さんは、これまで「北九州は文化の砂漠」という言葉を耳にタコができるぐらい聞かされてきたそうです。しかし、詩人の平出隆さん(わたしの小倉高校の先輩)に、北九州はじつは古代から交通の要所であり、文化と無縁であるはずがないという話を聞き、少し考え方が変わってきたとか。
わたしも、たしかに北九州には文化があったと思っています。そもそも、大陸から最初に文化を受け入れた土地こそ北九州です。それが、1901年に官営の八幡製鉄所が完成して以来、なんとなく「文化」とは無縁のイメージが強くなってきました。
本来、「工業」と「文化」はけっして相反するものではありません。
工業教育に最大の貢献をした実業家・松本健次郎が建てた「西日本工業倶楽部」の存在が、そのことを雄弁に物語っています。
平野啓一郎さんの目には、講演会場の西日本工業倶楽部はどう映ったでしょうか。
いつか、平野さんとゆっくり、北九州と錬金術と鏡花について語り合ってみたいです。
ちなみに、鏡花、わたし、平野さんの3人は、いずれもウサギ年です。
そう、平野さんも、わたしも、来年の年男なのであります。


                  西日本工業倶楽部での対話


2010年12月6日 一条真也



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