呪いの物語、癒しの物語

一条真也です。

北九州に戻ってきました。とても良い天気です。
小松空港で「中京スポーツ東京スポーツ)」を買いました。
見出しに、「海老蔵呪われた?」とあり、興味をそそられたからです。


               12月10付「中京スポーツ」より


記事を読んでみると、市川海老蔵の今回の災難は、市川家にかけられた「呪い」だというのです。梨園関係者の多くは、市川家にまつわる不幸の系図に気づいており、中には「呪いだ」と断言する人もいるとか。
現在の海老蔵は、歌舞伎界の名門中の名門である市川團十郎家の第11代目に当たります。この一族、初代が舞台で刺殺され、2代目は歌舞伎界の大スキャンダルとされた「絵島生島事件」に巻き込まれました。
また、4代目は22歳で病死、5代目は長男が自殺、6代目は割腹自殺、7代目は舞台に立つことなく41歳で死去、8代目も41歳で死去、9代目は酒の飲みすぎで胃がんで死去、10代目の現團十郎白血病を患いました。
このように、市川團十郎家は不幸続きの家系だというのです。
一族の「呪い」は、なんと市川家秘伝の技である「にらみ」芸に由来するという説もあるそうです。「にらみ」にはある種の呪術的なパワーがあり、それをできなくするために顔面を粉砕される悲劇に見舞われたというのです。
まあ、ここまで来れば、「東スポ」お得意のファンタジーの世界だという気がしますね。


                  大浦静子さんのブログより


ところで、昨日の講演に来て下さった大浦静子さんからまたメールを頂戴しました。
そのメールには「昨日は『雪の科学館』を訪れられたのですね。びっくりしました。『天からの手紙』を受け取ってくださって有り難うございます」と書かれており、その訳は本日の大浦さんのブログに書かれているとありました。
早速、大浦さんのブログ記事「雪は天からの手紙」を拝見しました。
すると、大浦さんの亡き娘さんである郁代さんが、九州から来たわたしのために金沢に初雪を降らしてくれたと書かれていました。また、わたしが「中谷宇吉郎 雪の科学館」を訪れたのも郁代さんの仕業であったというのです。
そういえば、大浦さんのメールには「これも郁ちゃんの仕業かもしれませんね」という言葉がよく出てくることに気づきました。なんと素敵な話でしょうか! 
わたしは、郁代さんを想う静子さんの母心に感動しました。
そして、あらためて、人間には「物語」というものが必要であることを痛感しました。



そして、葬儀というものの本質も、じつは物語と深く関わっています。
愛する人を亡くした人の心は不安定に揺れ動いています。しかし、そこに儀式というしっかりした「かたち」のあるものが押し当てられると、不安が癒されていきます。 
親しい人間が死去する。その人が消えていくことによる、これからの不安。
残された人は、このような不安を抱えて数日間を過ごさなければなりません。
心が動揺していて矛盾を抱えているとき、この心に儀式のようなきちんとまとまった「かたち」を与えないと、人間の心にはいつまでたっても不安や執着が残るのです。この不安や執着は、残された人の精神を壊しかねない、非常に危険な力を持っています。
この危険な時期を乗り越えるためには、動揺して不安を抱え込んでいる心に、ひとつの「かたち」を与えることが求められます。
まさに、葬儀を行う最大の意味はここにあります。



では、この儀式という「かたち」はどのようにできているのでしょうか。
それは、「ドラマ」や「演劇」にとてもよく似ています。
死別によって動揺している人間の心を安定させるためには、死者がこの世から離れていくことをくっきりとしたドラマにして見せなければなりません。
ドラマによって「かたち」が与えられると、心はその「かたち」に収まっていきます。
すると、どんな悲しいことでも乗り越えていけるのです。
それは、ずばり、「物語」の力だと言えると思います。
わたしたちは、毎日のように受け入れがたい現実と向き合います。
そのとき、物語の力を借りて、自分の心のかたちに合わせて現実を転換しているのかもしれません。つまり、物語というものがあれば、人間の心はある程度は安定するものなのです。逆に、どんな物語にも収まらないような不安を抱えていると、心はいつもぐらぐらと揺れ動いて、愛する人の死をいつまでも引きずっていかなければなりません。



仏教やキリスト教などの宗教は、大きな物語だと言えるでしょう。
「人間が宗教に頼るのは、安心して死にたいからだ」と断言する人もいますが、たしかに強い信仰心の持ち主にとって、死の不安は小さいでしょう。
中には、宗教を迷信として嫌う人もいます。でも面白いのは、そういった人に限って、幽霊話などを信じるケースが多いことですね。宗教が説く「あの世」は信じないけれども、幽霊の存在を信じるというのは、どういうことか?それは結局、人間の正体が肉体を超えた「たましい」であり、死後の世界があると信じることです。
宗教とは無関係に、霊魂や死後の世界を信じたいのです。
幽霊話にすがりつくとは、そういうことだと思います。



死者が遠くに離れていくことをどうやって表現するかということが、葬儀の大切なポイントです。それをドラマ化して、物語とするために、葬儀というものはあるのです。
たとえば、日本の葬儀の8割以上を占める仏式葬儀は、「成仏」という物語に支えられてきました。葬儀の癒しとは、物語の癒しなのです。
わたしは、「葬儀というものを人類が発明しなかったら、おそらく人類は発狂して、とうの昔に絶滅していただろう」と、ことあるごとに言っています。
愛する人が亡くなるということは、あなたの住むこの世界の一部が欠けるということです。欠けたままの不完全な世界に住み続けることは、かならず精神の崩壊を招きます。
不完全な世界に身を置くことは、人間の心身にものすごいストレスを与えるわけです。
まさに、葬儀とは儀式によって悲しみの時間を一時的に分断し、物語の癒しによって、不完全な世界を完全な状態に戻すことに他ならないのです。



人間は「物語」を必要とする存在です。
市川家の不幸の系図は、「呪い」の物語です。
郁代さんが天からの手紙をわたしに降らせてくれたのは、「癒し」の物語です。
「葬式は、要らない」という人もいれば、「無縁社会」の恐怖を声高に叫ぶ人もいます。
「呪い」は発生したとたん、どんどん自己増殖していきます。
それこそ、不幸のチェーン・メールのように。
わたしたちは、「癒し」の物語をこそ語り、「かたち」にしなければなりません。
そして、その「癒し」の物語を広く伝えていかなければなりません。
最新の大浦さんのブログ記事「「挽歌」がとりもった縁です」では、大浦さんとわたしがお互いの著書を持った写真が掲載されていました。縁をとりもっていただいた佐藤修さんも、自身のブログ記事「挽歌が取り持つ縁」で紹介していただきました。
考えてみれば、「縁」ほど不思議で素敵な物語は、この世にはありません。


                  大浦静子さんのブログより


2010年12月10日 一条真也