死刑囚の名前

一条真也です。

東日本大震災の傷跡が深く、新たな災害や放射能の不安も消えない日本ですが、大震災関連以外の大きなニュースがありました。
秋葉原無差別殺傷事件」の裁判で殺人などの罪に問われている加藤智大被告に対し、東京地裁は求刑通り、死刑を言い渡したのです。


23日の東京地裁において、黒いスーツで入廷した加藤被告は、これまでの公判と同じように、手錠と腰縄姿のまま、遺族や被害者が座る傍聴席に深々と一礼しました。
主文の後、村山浩昭裁判長は「この上なく重い刑であることは分かっていると思います」と念を押すように告げたそうです。そのとき、直立した加藤智大被告は静かに視線を返し、最後までその顔には感情が浮かぶことはなかったとか。



加藤被告は、あの「神戸連続児童殺傷事件」の“酒鬼薔薇聖斗”と同い年です。
2008年6月8日、彼は2トントラックで歩行者天国に突っ込んで、歩行者数人をはねました。さらにトラックから降りてサバイバルナイフで歩行者らを次々に刺しました。
この前代未聞の二重殺人行為で、7人が死亡、10人が重軽傷を負いました。
加藤容疑者は調べに対し、「人を殺すために秋葉原に来た」「世の中が嫌になり、誰でもよかった」と供述し、事件当日には携帯電話サイト掲示板に「秋葉原で人を殺します。車でつっこんで、車が使えなくなったらナイフを使います」などと書き込んでいたといいます。当時、わたしは「世も末だ」と思い、暗澹たる気分になりました。



ところで、わたしは加藤容疑者の「智大(ともひろ)」という名前に興味を抱きました。
わたしは、事件が起こった2008年の1月から、わが社の全社員にバースデーカードを書き始めました。1500名近い社員の名前を書きながら、2つのことを思いました。
まずは、「世の中には、本当にいろんな名前があるなあ」ということ。
そして、「この名前には親御さんの心が込められているのだなあ」ということでした。
当然ながら、名前のない人など、この世にはいません。
すべての人には名前があり、その名前には何らかの意味があります。



じつはわたしは、名前というのは、世界最小の文芸ではないかと思っています。
日本では短歌や俳句が浸透していますね。わたしは短歌を好みますが、普通の高齢者で俳句をやられていて、新聞などに投稿している方が多く存在します。それを見た外人には、「ジャパニーズは全員が詩人なのでは」と感心するそうです。
たしかに短歌ならば31字、俳句だと17字の詩歌の「かたち」を国民が共有しているというのは、すごいことかもしれません。でも、名前で17字もある日本人はいませんね。つまり、名前は俳句よりさらに短いわけです。
そして、名前は必ずつけますから、俳句よりさらにポピュラーです。



もちろん、姓名判断のプロに頼む人もいるでしょうが、普通に結婚して子どもを授かったならば、だいたい命名というものに直面します。そこで、いろいろ頭を悩ますわけです。わたしは、これは文芸における創作の苦労とまったく変わらないように思うのです。
誰でも、子どもに納得のいく名前をつけようとします。先祖や親の名前とか生まれた季節にちなんだり、たとえば「仁」「義」「礼」とか「真」「善」「美」といったハートフル・キーワードを入れようとしたり、美しい語感で飾ろうとしたりするわけです。
すなわち、名前とは親が「このような人間に成長してほしい」という願いを込めた文芸作品だといえるのではないでしょうか。
詩には詠む者の志が宿るといわれますが、名前には親の願いが宿るのです。
かつて、わが子に「悪魔」ちゃんとつけようとした親がいました。
事の善悪は別にして、あれはあれで、まさしく彼の文芸だったわけです。



そして、加藤被告は「智大」という名前でした。
この名にも、明らかに両親の願いが込められています。
「智大」を逆にすると「大智」ですが、これは聖徳太子の「冠位十二階」の階級名です。
なによりも「智」とは「仁」「義」「礼」と並ぶ儒教の最重要コンセプトです。
よく混同されますが、「知」と「智」は違います。
「知」とは、自分が知っていることと知らないこととの区別を知ること。
いっぽう、「智」とは、善悪の区別を知ることです。



加藤被告の両親は非常に教育熱心だったそうですが、わが子に「知大」ではなく「智大」と名づけました。おそらく、「善悪の区別を大いに知る人間」に育ってほしいと願ったのではないかと思います。
しかし、その期待は完全に裏目に出てしまい、わが子は死刑囚となりました。
加藤被告の両親の心中を思うと、ただただ悲しい気分になります。
「名前負け」したというだけでは、やりきれない思いがします。
もちろん、加藤被告に生命を奪われた遺族のみなさんも、やりきれない思い、それこそ「津波のようなわびしさ」を感じ続けてきたことと思います。



最後に、加藤被告によって負の記号が貼られた「秋葉原」という地名は、“AKB48”が見事にイメージアップを果たしました。
地名というものも、また「名前」であることに改めて気づきますね。
しかしながら、ただでさえ地震津波放射能の不安が消えない中で、有名事件の死刑判決までが出たわけです。もちろん、司法の世界に災害は関係ないのでしょうが、「もうちょっと時期を考えてもよかったのでは」と思うのは、わたし一人だけでしょうか?


2011年3月25日 一条真也