日本のこころ

一条真也です。

本日14時からブログ「よみうりFBS特別講座ご案内」で紹介した講演を行います。
今朝も「読売新聞」を開いたら、天皇・皇后両陛下が30日の午後に約290人の被災者がいる避難所をお見舞いで訪問された記事が出ていました。


                  「読売新聞」3月31日朝刊


場所は東京都足立区にある東京武道館で、ここは福島第一原発の事故を受けて開設され、福島県の被災者が身を寄せているのです。両陛下は、畳が敷かれた道場を回られ、膝をつきながら「元気出して下さいね」などと励まされたそうです。
記事によれば、皇后陛下は幼い子どもを抱えた母親に「子どもが遊ぶ環境はありますか」「よく眠れますか」などと気遣われたそうです。
その母親は、「目を見て話してくださり、優しい方だと感じた」と笑顔を浮かべていたといいます。終戦直後の昭和天皇をはじめ、歴代の天皇国難のときに各地を行幸され、国民の「こころ」は大いに元気づけられてきました。



両陛下は大震災後、「自主停電」されているといいます。
15日から「第1グループ」の計画停電の時間に合わせ皇居・御所の電気を切り、実際に停電にならない日も、予定通り続けておられるとか。
照明が消えた暗い中で、ろうそくや懐中電灯を使いながら、夕食をとられたこともあるそうです。77歳のご高齢で、前立腺がんの手術も受けられた天皇陛下が、その間は暖房も使われず、「寒いのは(服を)着れば大丈夫」と言われていると知り、感動しました。
まさに、『日本書紀』に出てくる仁徳天皇の「民のかまど」の話を思い出します。


天皇陛下へのリスペクトを口にすると、すぐ「右翼」などと言われた時代がありました。
わたしの高校の頃もそうでした。当時、三島由紀夫に心酔していたわたしは、そういう風潮に反抗して、あえて「憂国」という同人誌を刊行したこともあります。
いま、テレビでACの新しいCMがたくさん流れています。そこには、「日本はひとつ」「日本は強い国」「日本の強さは団結力」などのメッセージが謳われています。
SMAPも嵐もサッカー選手たちも、メッセージを口にしています。
その様子を「危険な流れ」とか「ナショナリズムの再来」とか「右傾化の不安」だとかいった頓珍漢な意見をブログなどで目にします。まったく、情けないことです。
いま、日本に良い意味でのナショナリズムが必要なのは当たり前ではないですか!
未曾有の「国難」にあって「愛国心」がなければ、日本は滅亡するではないですか!
頓珍漢な「反日日本人」たちは、いつまで平和ボケし、「批判癖」という悪習を捨てられないのか。こんな非常時につまらないチャチを入れる人の品性を疑います。



愛国心」についてですが、わたしは日本の最大の不幸は「国を愛している」と堂々と口にできない社会的素地を作った戦後教育にあったと思っています。
世界中、「愛国心」を否定する人間が存在する国家は日本以外にはありません。
愛国心は、他者を愛し、隣人を愛し、郷土を愛する心の延長線上にあるものです。
わたしは、渋沢栄一大杉栄内村鑑三賀川豊彦小林秀雄三島由紀夫も深くリスペクトしています。彼らはいずれも大いに「愛国心」を持っていた人だと思っています。
一昨日、内閣官房の方とお話ししました。
このままでは日本の復興は大変厳しく、ぜひ多くの高齢者が持っている金融資産も含めて、国民の寄付活動を活発化する必要があります。そのためには、消費社会研究家の三浦展氏がいうところの「愛国消費」というものを呼び起こす可能性も考えられます。多額の寄付者は堂々と実名で国家が表彰し、極論を言えば「爵位」の復活なども視野に入れて、豊かな方々には大いに復興のための寄付をしていただきたいものです。そして、そのために「日本の象徴」である天皇の存在が重要になってくると感じました。



わたしは、天皇の存在は「日本人のこころ」そのものであると思います。
ユダヤ・キリスト・イスラムのいわゆる三大「一神教」において、信仰の根幹に関わる大問題として「三位一体説」があります。
まず、イスラエルの地でユダヤ人が唯一絶対神であるヤハウエを信仰しました。
ユダヤ教の誕生です。それをキリスト教徒が引き継ぎました。ユダヤ教キリスト教も、同じ唯一絶対の神を信じることに変わりはありませんが、ユダヤ教が徹底して唯一の存在としての神を信奉するのに対し、キリスト教では後世、多くの緩やかな神についての解釈が採用されました。その代表が、三位一体説です。
すなわち神とは、「父」と「子」と「聖霊」。父なる神、人の罪を贖(あがな)うキリスト(救世主)としての神の子イエス、個々の信仰者に現れる神の化身的存在あるいは神の霊としての聖霊の三つで、それら三者が曖昧(あいまい)に微妙なバランスをもって、ともに神として存在しているというのです。



このような三位一体説、つきつめればイエスの存在をどうとらえるかでユダヤ・キリスト・イスラムの三姉妹宗教は見方を異にし、対立して、血を流し合ってきたと言えます。
ところが、わたしは、日本こそ三位一体説の国ではないかと考えています。
それは、「父」と「子」と「聖霊」によるものではありません。
そうではなく、「神」と「仏」と「人」による三位一体説です。  
宗教や信仰とは結局、何かの対象を崇敬し、尊重することに他なりませんが、日本人は森羅万象にひそむ神を讃え、浄土におわす仏を敬い、かつ先祖を拝み、君主をはじめ他人に対して忠誠や礼節を示してきました。
かつてプロ野球で、西鉄ライオンズの黄金時代には「神様、仏様、稲尾様」と言われ、阪神タイガースでも「神様、仏様、バース様」と言われました。WBCで日本が優勝したときは、「神様、仏様、イチロー様」と言われました。



考えてみれば、生身の人間を神仏と並べるとは、すごいことです。
まさに「不遜のきわみ」であり、まことに恐れ多いことです。
ユダヤ教キリスト教イスラム教といった一神教においては、神と人間を並べるなど、絶対にありえないことです。しかし、日本ではそれが当たり前に行なわれてきました。
さかのぼれば、西郷隆盛徳川家康といった歴史的英雄がそうでしたし、そもそも、日本では天皇そのものが神仏と並び称される存在でした。
なにしろ天皇とは、『古事記』に出てくる神々の子孫でありながら、仏教の最大の信者であったという歴史を持つのですから。



日本人は、「神様、仏様、××様」と、現実に生きている人間を神仏と並べます。
これは、まさに神、仏、人の三位一体です。
それらの器となった宗教こそ、神道、仏教、儒教です。そして、日本流「三位一体」をなす「神仏儒」を一つのハイブリッド宗教として見るなら、その宗祖とはブッダでも孔子もなく、やはり聖徳太子の名をあげなければならないでしょう。
わたしは、神道や仏教のみならず、儒教までをその体内に取り入れている日本人の精神風土を全面的に肯定します。
別に「無宗教」とか「宗教の世俗化」ということで卑屈になる必要はまったくありません。
互いの神を認めない一神教の世界では、戦争が絶えません。
しかし、日本人はあらゆる宗教を寛容に受け入れます。
その広い心の源流をたどれば、はるか聖徳太子に行き着くのです。



聖徳太子は、宗教と政治における偉大な編集者でした。儒教によって社会制度の調停をはかり、仏教によって人心の内的不安を実現する。すなわち心の部分を仏教で、社会の部分を儒教で、そして自然と人間の循環調停を神道が担う。三つの宗教がそれぞれ平和分担するという「和」の宗教国家構想を説いたのです。
日本人の「こころ」の柱となっているものは、神道と仏教と儒教です。
そして、日本人の「こころ」を一文字で表現するならば、「和」以外にありません。
日本とは、大いなる和の国、すなわち「大和」なのです。
やはり、日本はひとつ、日本の強さは団結力です。


2011年3月31日 一条真也