社員でなく同志

一条真也です。

今朝は、松柏園ホテルの神殿で行われた月次祭に参加しました。
その後、恒例の「佐久間塾」および「平成心学塾」を開催しました。


                  松柏園ホテルの玄関前の看板


まず最初に、「佐久間塾」で東北の被災地への人的派遣に関して話しました。
東北の被災地における人的支援を(社)全互協より依頼を受け、サンレーグループでは被災地支援の志願者を募りました。すると、約70名もの志願者が集まりました。
現場の過酷な状況に加え、さまざまな危険もあるというのに、70名もの人が志願してくれたことに驚くとともに、感動しました。
このたび、70名の中から家族の同意も得た14名のメンバーが選出されました。
現在2名1組で7チーム体制にて緊急出動態勢に備え待機しています。 


               被災地への人的支援について話しました


論語』には、「義を見てせざるは勇なきなり」という有名な言葉が出てきます。
孔子によれば、正義を実行するのが真の「勇気」なのだというのです。
わたしは、以上14名の名前を1人づつ、心を込めて読み上げました。
読み上げながら、1人1人の顔が浮かんできて、胸が熱くなりました。


                14名の同志の名前を読み上げました


4月14日に宮城県気仙沼市より全互協へ復興のための派遣要請がありました。
そのため、4・19〜5・15までの派遣が決定しています。
なお、1チーム4名編成で、派遣期間は7日間で現地5日間の支援活動となります。
大事な社員を被災地に派遣するのは、正直言って心配です。
しかし、みんな快く引き受けてくれたことに感動しました。
誰もが、わが社の「人間尊重」というミッションをよく理解してくれ、少しでも大震災の犠牲者の人間の尊厳を守ろうと考えたのです。
14名の派遣スタッフをはじめ、70名の志願者のみなさん、そして彼らをサポートする他の人々も、会社の社員というよりも「天下布礼」の同志であると痛感しました。
そう、社員ではなく同志であると心から思ったのです。


                  「平成心学塾」で土葬を語る


続いて、「平成心学塾」へと移りました。
被災地の一部では、火葬が行われずに土葬が実施されています。これを異常事態ととらえる人は多く、わたしも土葬で「人間の尊厳」が守れるのかと心を痛めていました。
しかし、昨日の「産経新聞」に興味深い記事が出ていました。ネットの「産経ニュース」でも読めますが、「立命館大教授・加地伸行 土葬をめぐる意外な議論」という記事です。
加地伸行先生は日本における儒教学の第一人者であり、わたしが尊敬する方です。
わたしの儒教孔子に対する考え方は、加地先生の影響を強く受けています。
加地先生は、東北の被災地で火葬ではなく土葬が行われていることについて、次のように述べられています。
「結論だけを言おう。(1)儒教文化圏(日本・朝鮮半島・中国など)では、土葬が正統である。それは儒教的死生観に基づいている。(2)火葬はインド宗教(インド仏教も含む)の死生観に基づいて行われ、火で遺体を焼却した後、その遺骨を例えばガンジス川に捨てる。日本で最近唱えている散骨とやらは、その猿まねである。(3)日本の法律で言う「火葬」は遺体処理の方法を意味するだけ。すなわち遺体を焼却せよという意味。その焼却後、日本では遺骨を集めて〈土葬〉する。つまり、日本では(a)遺体をそのまま埋める〈遺体土葬〉か、(b)遺体を焼却した後、遺骨を埋める〈遺骨土葬〉か、そのどちらかを行うのであり、ともに土葬である。(4)正統的には(a)、最近では(b)ということ。(b)は平安時代にすでに始まるが、一般的ではなく最近ここ50年来普及したまでのことである」


(a)の遺体土葬が主流であった理由は、加地先生の著書である『儒教とは何か』(中公新書)や、今月刊の『沈黙の宗教−儒教』(ちくま学芸文庫)に詳しく書かれています。
いずれも大変な名著ですので、みなさんも、ぜひお読み下さい。
加地先生は、次のように訴えかけます。
「東北の方々よ、遺体土葬は決して非常手段ではない。いや、それどころか、むしろ伝統的であり死者のための最高の葬法なのである」と。
わたしは、大きな衝撃を受けるとともに、「なるほど!」と納得しました。
たしかに火葬ができずに土葬されるからといって、「人間の尊厳」が失われるわけではないのです。むしろ、逆に土葬こそ「人間の尊厳」を守った葬法なのです。



もちろん、この考え方は一般の日本人には馴染みはないでしょう。
加地先生も「遺族の気持ちは理屈だけでは割り切れまい。死者に対して行きとどかなかったという思いがずっと残るかもしれない」と述べています。
しかし、その後で『論語』に出てくる「喪は其の易まらんよりは寧ろ戚めよ」という言葉を紹介されています。「葬儀のときは、行き届きすぎるよりも、哀しみで段取りがずれるほうがいいのだ」という意味ですが、まさに2500年前の古代中国から現在の東北の被災者に向けて放たれた孔子の言葉です。
ここでも、わたしは『論語』のすごさ、奥深さを思い知りました。


                最後は「福祉村」について説明しました


最後は、昨日お会いしたNPO法人・北九州ホームレス機構の奥田知志理事長が提唱されている「絆プロジェクト北九州」について触れ、わたしの「高齢者福祉特区」構想とドッキングして、北九州市に世界一の「福祉村」をつくるアイデアを紹介しました。
今日の「平成心学塾」では、このような話をしました。
これから、午後に西日本新聞の講演、夕方に司法修習生への講演を控えています。


2011年4月16日 一条真也