村上春樹のスピーチ

一条真也です。 
今日は、東京や広島をはじめ、日本各地で脱原発のデモが行われました。
スペインでは、現地時間の9日に作家の村上春樹氏がスピーチを行いました。
そこで福島第一原発事故に触れた村上氏は、日本人は「核に対する『ノー』を叫び続けるべきだった」と述べ、物議を醸し出しています。


ノーベル文学賞に最も近い世界的作家」として知られる村上春樹氏は、スペインのカタルーニャ国際賞を受賞し、その授賞式でスピーチしたのです。
22分間にわたるスピーチの中で、村上氏は大震災で原発事故を起した東電を批判し、ひたすら「効率」というものを求めてきた社会に疑問を投げかけました。
何百年かに1度あるかないかという大津波のために大金を投資するのは営利企業の歓迎するところではなく、政府も原子力政策を推し進めるために安全基準のレベルを下げていたというのです。しかし村上氏は、こうした「歪んだ構造」を「許してきた」、「黙認してきた」のは日本国民であるといいます。
われわれ日本人にも責任があり、加害者であるというのです。



村上氏はまた、広島に落とされた原子爆弾に触れ、次のように述べます。
「ご存じのように、われわれ日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。1945年8月、広島と長崎という2つの都市に、米軍の爆撃機によって原子爆弾が投下され、合わせて20万を超す人命が失われました。死者のほとんどが非武装の一般市民でした。しかしここでは、その是非を問うことはしません。僕がここで言いたいのは、爆撃直後の20万の死者だけではなく、生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていったということです。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、われわれはそれらの人々の犠牲の上に学んだのです」



村上氏は、日本人の「核」への拒否感は「効率」によって揺らいだといいます。
そして、次のようにストレートな反核メッセージを訴えるのです。
「われわれ日本人は核に対する『ノー』を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。われわれは技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が『原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ』とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。
それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、『効率』という安易な基準に流され、その大事な道筋をわれわれは見失ってしまったのです」



最後に村上氏は、「『効率』や『便宜』という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。われわれは力強い足取りで前に進んでいく『非現実的な夢想家』でなくてはならない」と真剣な表情で述べました。
こういったスピーチの内容に対して、ネット上では賛否の意見が寄せられているとか。
肯定的な意見も多い一方で、批判的な意見や疑問も少なくありません。
「効率」を求めてきたことだけが今回の惨劇の原因ではないという意見や、その「効率」を現代人は簡単に捨てることはできないという意見もありました。
さらには、「そんなに発言力があるのに反原発を叫ばなかったの?」「(想定の有無や効率よりも、東電の)事後の対応のまずさも大きいのでは」「外国で言わずに日本のマスコミの前で言ってください。インタビューを生中継で受けてその場で話して下さい」といった村上氏の言論人としての姿勢を問う声もありました。



2009年のイスラエルでのスピーチでは個人と社会のあり方を「卵」と「壁」にたとえ、日本人から絶賛されました。しかし、今回は評価が大きく分かれた形となりました。
イスラエルの場合は、はっきり言って日本人とは無関係の話でしたが、今回は日本人そのものの問題だという違いもあるでしょう。
わたしは22分間のスピーチをすべて聴きましたが、もっと本質的な問題を村上氏のスピーチから感じました。つまり、村上氏は日本や日本社会を俯瞰しすぎているのです。
ある意味で、非常に冷静な第三者の視点で見ているわけですから、日本および日本人を正しく分析しているのでしょう。しかし、現実に日本社会の中で生きており、そうすることしかできない人々にとっては他人事の「遠い声」に聞こえるのだと思います。
わたし個人としては、「いつ大地震が起きてもおかしくない東京の人口が減らない」ことの不思議を口にした村上氏の素朴な疑問には大いに共感しました。
それから、津波の犠牲になって今も冷たい海の底で眠っている人々のことを想像すると「胸が締め付けられる」というコメントが印象的でした。つねに「死者との共生」をテーマにした小説を書き続けている村上氏らしいと思いました。
感心したのは、日本人の「無常観」についての説明です。非常にわかりやすく、格調の高さを感じました。ぜひノーベル文学賞の受賞式で語ってほしい内容でしたね。



わたしは、基本的に村上春樹氏の言ったことは正しいと思います。
でも、「非現実的な夢想家」という魅力的なキーワードだけは引っかかりました。
わたしは「夢想」という言葉が大好きです。そして、別に好きではありませんが「現実」という言葉を忘れてはならないと考えています。
つまり、わたしは「現実的な夢想家」をめざして生きています。
小説家ならば、「非現実的な夢想家」として生きるのも素敵でしょう。しかし、ビジネスマンをはじめ、日本で暮らす多くの人々の前にあるものは「現実」そのものです。
わたしたちは死者へのまなざしも絶対に忘れてはいけませんし、同時に今後この世界で生き続けていく人々のことも考えなければいけない。
村上氏のスピーチを聴きながら、わたしはそんなことを考えました。
蛇足ですが、最初のスペイン女性のキスの話はもっとニヤニヤ笑いながら嬉しそうに話すべきでしたね。思い切りくだけて話せば、スベらなかったのでは?


2011年6月11日 一条真也