9・11に思う

一条真也です。

今日は、2011年9月11日です。
そう、あの米国同時多発テロ事件から10年が経過したことになります。
わたしは、2001年10月1日に株式会社サンレーの社長に就任しました。
その直前の9月11日に起こったのが、米国同時多発テロ事件でした。


ニューヨークの世界貿易センタービルでは、じつに2753人が犠牲になりました。
今日で10年目になりましたが、なんと、まだその4割の身元が明らかになっていないそうです。遺族のために今も地道な努力が続けられているそうですが、心が痛みます。
どうしても、東日本大震災の身元不明者を想ってしまいます。
そして、10年前の9・11同時多発テロには多くの日本人犠牲者もいました。



                  「朝日新聞」9月10日朝刊


1999年7の月にノストラダムスが予言した「恐怖の大王」も降ってこず、20世紀末の一時期、20世紀の憎悪は世紀末で断ち切ろうという楽観的な気運が世界中で高まり、多くの人々が人類の未来に希望を抱いていました。
20世紀は、とにかく人間がたくさん殺された時代でした。
何よりも戦争によって形づくられたのが20世紀と言えるでしょう。
もちろん、人類の歴史のどの時代もどの世紀も、戦争などの暴力行為の影響を強く受けてきました。20世紀も過去の世紀と本質的には変わらないが、その程度には明らかな違いがあります。本当の意味で世界的規模の紛争が起こり、地球の裏側の国々まで巻きこむようになったのは、この世紀が初めてなのです。
なにしろ、世界大戦が1度ならず2度も起こったのです。その20世紀に殺された人間の数は、およそ1億7000万人以上といいます。そんな殺戮の世紀を乗り越え、人類の多くは新しく訪れる21世紀に限りない希望を託していたのです。



しかし、そこに起きたのが2001年9月11日の悲劇でした。
テロリストによってハイジャックされた航空機がワールド・トレード・センターに突入する信じられない光景をCNNのニュースで見ながら、わたしは「恐怖の大王」が2年の誤差で降ってきたのかもしれないと思いました。
いずれにせよ、新しい世紀においても、憎悪に基づいた計画的で大規模な残虐行為が常に起こりうるという現実を、人類は目の当たりにしたのです。
あの同時多発テロで世界中の人びとが目撃したのは、憎悪に触発された無数の暴力のあらたな一例にすぎません。こうした行為すべてがそうであるように、憎悪に満ちたテロは、人間の脳に新しく進化した外層の奥深くにひそむ原始的な領域から生まれます。また、長い時間をかけて蓄積されてきた文化によっても仕向けられます。それによって人は、生き残りを賭けた「われら対、彼ら」の戦いに駆りたてられるのです。グローバリズムという名のアメリカイズムを世界中で広めつつあった唯一の超大国は、史上初めて本国への攻撃、それも資本主義そのもののシンボルといえるワールド・トレード・センターを破壊されるという、きわめてインパクトの強い攻撃を受けました。その後のアメリカの対テロ戦争などの一連の流れを見ると、わたしたちは、前世紀に劣らない「憎悪の連鎖」が巨大なスケールで繰り広げられていることを思い知らされました。まさに憎悪によって、人間は残虐きわまりない行為をやってのけるのです。
そんなことを考えて、わたしは『ハートフル・ソサエティ』(三五館)を書きました。


                 人は、かならず「心」に向かう


21世紀は、9・11米国同時多発テロから幕を開いたと言ってよいでしょう。
あの事件はイスラム教徒の自爆テロリズムによるものとされていますが、この世紀が宗教、特にイスラム教の存在を抜きには語れないということを誰もが思い知りました。
世界における総信者数で1位、2位となっているキリスト教イスラム教は、ともにユダヤ教から分かれた宗教です。つまり、この3つの宗教の源は1つなのです。
ヤーヴェとかアッラーとか呼び名は違っても、3つとも人格を持った唯一神を崇拝する「一神教」であり、啓典をいただく「啓典宗教」です。
啓典とは、絶対なる教えが書かれた最高教典のことです。おおざっぱに言えば、ユダヤ教は『旧約聖書』、キリスト教は『新約聖書』、イスラム教は『コーラン』を教典とします。
わたしは、21世紀を生きる上で、日本人はこの三大一神教について深く知ることが不可欠と考え、『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ文庫)を書きました。
そして、3つの宗教ともに月信仰がベースにあることを突き止めました。


                   「宗教衝突」の深層


アポロの宇宙飛行士の中には、月面で神を感じた者もいました。
詳しくは、ブログ『月面上の思索』をお読み下さい。
月から地球を見ると、かのエベレストでさえも地球の皺にしか見えないといいます。
それと同じように、神という絶対的な存在にとってみればどんな権力者も貧乏人も民族も国籍も関係ありません。人間など、すべて似たようなものなのです。
アッラーの前には、すべての人間は平等である」と考え、イスラム教を月の宗教としたムハンマドは、このことにおそらく気づいていたのでしょう。
月の視線は、神の視線なのです。アポロの宇宙飛行士たちは、まさに神の視線を獲得したのです。そして、すべての宗教がめざす方向とは、この地球に肉体を置きながらも、意識は軽やかに月へと飛ばして神の視線を得ることではないでしょうか。


考えてみれば、月はその満ち欠けによる潮の干満によって、人類を含めた生命の誕生と死を司っています。そして、月は世界中の民族の神話において「死後の世界」にたとえられました。世界中の古代人たちは、人間が自然の一部であり、かつ宇宙の一部であるという感覚とともに生きていました。
彼らは、月を死後の魂のおもむくところと考えました。
月は、魂の再生の中継点と考えられてきたのです。多くの民族の神話と儀礼において、月は死、もしくは魂の再生と関わっています。規則的に満ち欠けを繰り返す月が、死と再生のシンボルとされたことはきわめて自然でしょう。
死なない人間はおらず、それゆえに死は最大の平等です。
すべての人間が死後、月に行くのであれば、これほどロマンのある話はないし、そこから宗教を超えた人類の心の連帯が生まれるのではないでしょうか。そんなことを考え、わたしは『ロマンティック・デス〜月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫)を書きました。
すべての宗教を超えて、地球上の人類は月を見上げるべきである。
月を見よ、死を想え! 最古の月神シンの記憶を蘇らせよ!
それこそが「人類平等」「世界平和」への第一歩であると、わたしは確信します。


                    月を見よ、死を想え


人は、地震津波や台風などの天災によって死に、殺人やテロや戦争などの人災によっても死ぬのです。ブログ「被災地の月」にも書いたように、数日前に訪れた石巻では、ひっそりと静まりかえる土葬の地の上空を見ると、そこに月がありました。
それを見ていると、月こそ「あの世」であるという想いが強くなりました。
夕暮れ時の石巻の月を見上げながら、わたしは次の歌を詠みました。
「天仰ぎ あの世とぞ思ふ望月は すべての人が帰るふるさと」
9・11から10年、3・11から半年となる今日、わたしは被災者へのグリーフケアの書である『生き残ったあなたへ』(佼成出版社)を脱稿しました。今宵は夜空に浮かぶ満月を見つめながら、すべての死者の冥福を心より祈りたいと思います。


2011年9月11日 一条真也