日々の訃報

一条真也です。

芸能人の訃報が相次いで発表されました。
28日、タレントの小野ヤスシさんが腎盂がんのため亡くなられました。
29日、俳優の地井武男さんが心不全のために亡くなられました。


「スポーツ報知」6月30日号



小野ヤスシさんは、軽妙なトークで人気を博しました。
今月13日に入院して自らの死期も悟っていたそうです。
19日頃、薄れゆく意識の中、小野さんは家族に「(葬儀は)どうか盛大にやってくれ」と告げ、奥さんや2人のお子さんたちにそれぞれ細かく指示を出したといいます。
「葬儀はしなくていい」とか「誰にも知らせるな」など言い残す者もいる昨今で、小野さんの態度は素晴らしいと思います。葬儀とは、お世話になった方々に感謝の意を伝える場であり、「あの人らしかったね」と言われる人生の卒業式だからです。
通夜および告別式は7月2・3日に東京・青山葬儀所で営まれます。
小野さんの遺言に沿って、盛大な音楽葬になるそうです。
これから、「盛大にやってくれ」が流行語になる予感がします。


「スポーツ報知」6月30日号



地井武男さんは、「ちい散歩」などのバラエティー番組や、ドラマ「太陽にほえろ!」「北の国から」などでの人情味あふれる演技で人気を集めました。
6年間出演した 「ちい散歩」は5月4日放送分で終了しました。
その最終回で「突然病に倒れ、私自身もびっくりいたしました。この際、治療に専念すべくお休みさせていただくことにいたしました」と視聴者に報告、「大変楽しくあっという間の6年でした」と振り返っていました。
ちい散歩」の後は、加山雄三さんの「若大将のゆうゆう散歩」が始まっています。




どうも東日本大震災以来、芸能人の訃報が多いような気がします。
小野ヤスシさんや地井武男さんは、おそらくわたしのことは知らなかったでしょう。
でも、わたしは小野さんや地井さんをよく知っていました。
なぜなら、お二人は有名な芸能人だったからです。わたしにとって、「知った顔」でした。
お二人の訃報は、わたしにとって「知っている人が亡くなった」なのです。
でも考えてみれば、芸能人だけでなく、一般の人々も日々亡くなっています。
テレビでよく目にして親しみを持っていた芸能人が亡くなると、多くの人は「ああ、人はやっぱり死ぬのだなあ」と改めて痛感するのではないでしょうか。
「散る桜 残る桜も 散る桜」とは良寛の句です。この真理を知らせてくれるという役割が、芸能人をはじめとした有名人の訃報にはあるように思います。


思い出ノート』と「著名人の死亡年齢」のページ



訃報に接して、まず気になるのは亡くなった方の年齢です。
小野ヤスシさんは72歳で、地井武男さんは70歳でした。
わたしが監修した『思い出ノート』(現代書林)は好評につき現在6刷ですが、巻末には「著名人の死亡年齢」一覧が掲載されています。これを読めば、さらに「死なない人はいないのだ」という事実を受け入れやすくなるという声があります。
坂本龍馬を尊敬している人なら「龍馬は32歳で死んだ。自分はもうその倍も生きているのか」との感慨を抱いたりするわけです。
わたしの場合も、三島由紀夫を愛読してきましたが、彼が自害を遂げた45歳を迎えたとき、「これから、三島の人生以上の年月を自分は生きるのだ」としみじみ思いました。
誰でも死ぬのは怖いものです。でも、「死の不安」を軽くするための方法はあります。
そのうちの1つが、有名人の死によって、「死に慣れる」ことでなないでしょうか。



さて、わたしたち日本人は、は超高齢化社会を迎えました。
そこで求められるのは、単なる「死」ではなく、「幸福な死」ではないでしょうか。
<死>についての教育再考」という興味深い論考をネットで見つけました。
東京工業大学大学院社会理工学研究科価値システム専攻(VALDES)が2011年に創立15周年を迎えました。その記念プロジェクトとして、「価値システム専攻から社会への発信」をテーマに、 在校生、卒業生、教員など関係者から論考を募ったそうです。
<死>についての教育再考」は、その中の応募作品です。VALDESの卒業生である野村総合研究所の中山久子氏が書かれたもので、「『魂の輪郭』に擬えた生き方を求める方法として」という副題がついています。そこに、次のように書かれています。
「多くの人が死を怖れ、自分が永遠に生きていくというような錯覚に陥った背景には日常生活から<死>が遮断されてしまったことが背景にあるといえよう。昨今になって自宅での看取りが見直されてきたが、<死>に近い人間は病院という隔絶された空間に排除され<生>の空間から覆い隠されてしまう。小さい子供に<死>を説明する時、“星”やその他の寓話を引用したことはないだろうか。だが、<死>はメルヘンではなく、否応なしに人が一生に一度は引き合わされる現実である。その<死>を忌み嫌うことは<生>を否定することに他ならないのではないだろうか。現在、日本が世界有数の自殺大国として不名誉な名を馳せているのも<死>の存在を軽んじて来た代償の一部ではないだろうか」
この中山氏の意見に、もちろん、わたしは全面的に賛成です。


「美しい死」について提唱しました



それにしても、「価値システム専攻から社会への発信」というテーマで、このような「死」についての「価値」の問題が取り上げられることに大きな意義を感じます。
続いて、中山氏は拙著『ロマンティック・デス〜月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫)を取り上げ、「一条真也(2005)は『美しい死、豊かな死、平和な死、楽しい死、幸福な死というものがデザインされているだろうか』という疑問を投げかけ『「私は死ぬ」から「私は美しく死ぬ」へのデザインが必要』と提唱している」と述べています。




わたしは、若い頃から「死」について考え続けてきました。
政治・経済・法律・科学・医療・哲学・芸術・宗教などなど人類の営みにはさまざまなジャンルがありますが、それらの偉大な営みが何のために生まれ、発展してきたかというと、それはすべて「人間を幸福にするため」という一点に集約されると思います。
そして、人間の幸福について考えて考えて考え抜いたとき、その根底には「死」という問題が厳然として在ることを、わたしたちは思い知るのです。
「死」の 問題を抜きにして、人間の幸福は絶対にありえません。
日々の訃報に接しながら、これからも「美しい死」について考えていきたいです。
最後に、小野ヤスシさんと地井武男さんの御冥福を心よりお祈りいたします。合掌。


2012年6月30日 一条真也