おくりびとの日

一条真也です。

仏教をテーマとした月刊誌「やくしん」3月号が送られてきました。
「一期一冊」というBOOKコーナーの「著者インタビュー」にて、『のこされた あなたへ』(佼成出版社)が紹介されています。


「やくしん」2012年3月号



「死は決して不幸な出来事ではありません」というタイトルで、以下のリードが続きます。
「作家であり、冠婚葬祭会社を営む一条真也さんは、東日本大震災により愛する人を失った遺族に向け、『悲しみを癒すための手助けをしたい』との一念から本書を綴りました。そこに込めた願いについてお聞きしました」
冒頭、「私は冠婚葬祭の仕事に携わっている関係で、多くのご葬儀に立ち合わせていただいています。ご遺族にとって葬儀をすること、そしてお仏壇やお墓の存在が、悲しみを癒すために重要な役目を果たしていると感じてきました」と述べています。



葬儀の癒しとは、物語の癒しではないでしょうか。
わたしは、「葬儀というものを人類が発明しなかったら、おそらく人類は発狂して、とうの昔に絶滅していただろう」と、ことあるごとに言っています。自分の愛する人が亡くなるということは、自分の住むこの世界の一部が欠けるということです。
欠けたままの不完全な世界に住み続けることは、かならず精神の崩壊を招く。
不完全な世界に身を置くことは、人間の心身にものすごいストレスを与えるわけです。
まさに、葬儀とは儀式によって悲しみの時間を一時的に分断し、物語の癒しによって、不完全な世界を完全な状態に戻すことに他ならないのです。葬儀によって心にけじめをつけるとは、壊れた世界を修繕するということなのです。だから、わたしはわが社の葬祭スタッフにいつも、「あなたたちは、心の大工さんですよ」と言っているのです。



また、葬儀は接着剤の役目も果たします。愛する人を亡くした直後、残された人々の悲しみに満ちた心は、ばらばらになりかけます。
それをひとつにつなぎとめ、結びあわせる力が葬儀にはあるのです。
多くの人は、愛する人を亡くした悲しみのあまり、自分の心の内に引きこもろうとします。誰にも会いたくありません。何もしたくありませんし、一言もしゃべりたくありません。
何がしたいかというと、ただひたすら泣いていたいのです。
でも、そのまま数日が経過すれば、どうなるでしょうか。
残された人は、本当に人前に出れなくなってしまいます。
もう、誰とも会えなくなってしまいます。
葬儀は、いかに悲しみのどん底にあろうとも、その人を人前に連れ出します。
引きこもろうとする強い力を、さらに強い力で引っ張り出すのです。
葬儀の席では、参列者に挨拶をしたり、お礼の言葉を述べなければなりません。
それが、残された人を「この世」に引き戻す大きな力となっているのです。


今日は、「おくりびと」になりました



今日は、同業の互助会の会長さんの葬儀に参列しました。
北九州市に本社を置く冠婚葬祭互助会である(株)サニーライフの故・大西利昌会長のお葬儀です。海外出張から帰って、そのまま自宅に直行し、喪服に着替えてから会場の「明善社大手町斎場」に向かいました。
大西会長は、同じ業界に生きるという「業界縁」のある方でした。
業界の大先輩として、わたしは色々と御指導を受けました。
また、ご長男で(株)サニーライフの大西孝英社長には、わたしが委員長を務めている全互協の広報・渉外委員会の有力メンバーとして助けていただいています。
今日は、全国から多くの同業他社の社長さんたちが来られていました。わたしは、多くの「おくりびと」に送られて、大西会長はさぞ喜んでおられるだろうと思いました。



アカデミー外国語映画賞を受賞した「おくりびと」が話題になりましたね。
でも、映画のヒットによって「おくりびと」という言葉が納棺師や葬儀社のスタッフを意味すると思い込んでいる人が多いようです。でも、それは違います。
おくりびと」の本当の意味とは、葬儀に参加する参列者のことなのです。
人は誰でも「おくりびと」です。そして最後には、「おくられびと」になります。
1人でも多くの「おくりびと」を得ることが、その人の人間関係の豊かさを示します。
豊かな人間関係に恵まれて、人生を堂々と卒業していかれた大西会長。
今日は、わたしも1人の「おくりびと」になりました。
最後に、大西利昌会長の御冥福を心よりお祈りいたします。合掌。


2011年12月日 一条真也