松陰神社

一条真也です。

萩にある松陰神社を久々に訪れました。
言わずと知れた、吉田松陰を祀ってある神社です。
御存知の方も多いと思いますが、わたしは松陰を心から尊敬しています。


萩にある松陰神社を訪れました

じつに、久々の訪問です

心を込めて、参拝しました

松陰の歌が心に沁みました



以前訪れたのは、2005年の夏でした。
その頃、ほぼ同時に上梓した『ロマンティック・デス〜月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫)と『ハートフル・ソサエティ』(三五館)の2冊を奉納するために来たのです。
そのとき、「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」という松陰の辞世の歌をもじって、「身はたとい地球(ガイア)の土に還るとも月に留めん心の社会」という歌を詠んだことを憶えています。歌は短冊に筆で書き、本と一緒に奉納しました。
歌といえば、神社の境内には、「親思う こころにまさる 親ごころ きょうの音づれ 何をきくらん」という松陰の歌碑があり、心に沁みました。


松下村塾の史跡にて

松下村塾の講義室の前で



境内には、かの松下村塾も保存されています。
この片田舎の地である萩で、松陰は「ここが世界の中心である」と塾生に訴えていたそうです。その気概を思うと、なんだか涙が出てきます。
なぜなら、その気概こそが、ドラッカーが「人類史上最大の社会的イノベーション」と呼んだ明治維新を実現させたわけですから。
松陰神社の境内の桜が満開で、花びらがひらひらと舞っており、とても美しかったです。
しかし、いくら桜が散っても、人の志は消えません。


松陰神社の境内にて



わたしが松陰から学んだことはたくさんありますが、何より重要なことは「志」の意味を知りました。結局、最も大切なものは「志」であると思います。
志とは心がめざす方向、つまり心のベクトルです。
行き先のわからない船や飛行機には誰も乗らないように、心の行き先が定まっていないような者には、誰も共感しないし、ましてや絶対について行こうとはしません。
志に生きる者を志士と呼びます。幕末の志士たちはみな、青雲の志を抱いていました。
吉田松陰は、人生において最も基本となる大切なものは、志を立てることだと日頃から門下生たちに説いていました。そして、志の何たるかについて、こう説きました。
「志というものは、国家国民のことを憂いて、一点の私心もないものである。その志に誤りがないことを自ら確信すれば、天地、祖先に対して少しもおそれることはない。天下後世に対しても恥じるところはない」
また、志を持ったら、その志すところを身をもって行動に現わさなければなりません。
その実践者こそ志士であるとする松陰は、志士の在りよう、覚悟をこう述べました。
「志士とは、高い理想を持ち、いかなる場面に出遭おうとも、その節操を変えない人物をいう。節操を守る人物は、困窮に陥ることはもとより覚悟の前で、いつ死んでもよいとの覚悟もできているものである」


満開の桜が美しかったです



わたしは、志というのは何よりも「無私」であってこそ、その呼び名に値するのであると信じています。松陰の言葉に「志なき者は、虫(無志)である」というのがありますが、これをもじれば、「志ある者は、無私である」と言えるでしょう。
平たく言えば、「自分が幸せになりたい」というのは夢であり、「世の多くの人々を幸せにしたい」というのが志です。
夢は「私」、志は「公」に通じているのです。
自分ではなく、世の多くの人々。
「幸せになりたい」ではなく「幸せにしたい」。
そう、この違いが決定的に重要なのです。
企業もしかり。もっとこの商品を買ってほしいとか、もっと売上げを伸ばしたいとか、株式を上場したいなどというのは、すべて私的利益に向いた夢にすぎません。
そこに公的利益はありません。社員の給料を上げたいとか、待遇を良くしたいというのは、一見、志のようではありますが、やはり身内の幸福を願う夢であると言えるでしょう。真の志は、あくまで世のため人のために立てるものなのだと思います。


それから、松陰そして彼の一門の生き方から「狂」の大切さも学びました。
『松陰と晋作の志』(ベスト新書)の著者である一坂太郎氏は、その厳しい宿命を、松陰たちは「狂」の境地に達することで受け入れたのだと述べています。
人々は、先覚者を先覚者とは気づかずに、狂っていると考えます。そんな周囲の雑音に惑わされ、志を曲げないためにも、先覚者は自分が狂っているのだと、ある種開き直る必要があったのです。先覚者を気取り、変革、改革を連呼して支持率を上げようとする現代の政治家とは、根本が違うのです。
松陰の影響もあり、幕末長州の若者たちは、好んで自分の行動や号に、「狂」の文字を入れました。彼らの遺墨を見ると、高杉晋作は「東行狂生」、木戸孝允桂小五郎)は「松菊狂夫」などと署名しています。慎重居士の代表のように言われる山県有朋でさえ、幕末の青年時代には「狂介」と称していました。



一坂氏の著書では、題名の通りに、松陰と晋作の志が情熱的に語られています。
松下村塾にも、志がありました。過激な言動が祟り、再び獄に繋がれることになった松陰は、門下生たちに漢詩を残して訴えました。
長門の国は日本の僻地である。しかも、松本村は、その僻地の中のさらなる僻地にある。しかし、ここを世界の中心と考え、励もうではないか。そうすれば、ここから天下を「奮発」させ、諸外国を「震動」させることができるかもしれない。
あまりにも壮大な志です。しかし、松本村の小屋に近所の子どもたちを集めて教えているに過ぎない松陰の発言内容を知れば、案の定、周囲の者は狂っていると思ったに違いありません。どんなに好意的に見ても、若き松陰の青臭い理想でしかありません。
ところが、この志は現実のものになっていきました。「乱民」と呼ばれながらも、「志を立てて万事の根源」とした者たちが、ついに時代を揺り動かしていったのです。


松陰はその晩年、ついに「狂」というものを思想にまで高め、「物事の原理性に忠実である以上、その行動は狂たらざるをえない」とずばり言いました。
そういう松陰思想の中での「狂」の要素を体質的に受け継いだ者こそ、晋作でした。
司馬遼太郎は、「晋作には、固有の狂気がある」と述べています。その晋作の辞世の歌に題名が由来する司馬の『世に棲む日日』には、松陰に発した「狂」がついには長州藩全体に乗り移ったさまがドラマティックに描かれています。
松陰が生きていた頃は、松陰1人が狂人だった。晋作がその「狂」を継ぎ、それを実行し、そのために孤独でした。その晋作の「狂」を、藩も仲間もみな持て余していました。
ところが、藩が藩ぐるみで発狂してしまったのです。
長州藩1つで、英仏独米という世界を代表する列強に戦争を仕掛けた「下関砲台事件」など、あまりにも馬鹿げた巨大な「狂」以外の何物でもありません。
しかし、その巨大な「狂」が、人類史に特筆すべきレボリューションを実現したのです。
企業においても、イノベーションの実現を真剣に考えるならば、まずは1人の狂人を必要とし、次第に狂人を増やし、最後は企業全体を発狂させねばならないと思います。
あの孔子でさえ、表面上「人格者」と呼ばれる者よりも、「狂者」と呼ばれる者に期待すると説いたのです。この意味を考える必要がありますね。


吉田松陰歴史館の前で

館内は、松陰の人生を再現しています

おお、下田渡海!

ああ、獄中の松陰先生!



「志」と「狂」に生きた松陰の人生を人形で再現したのが、「吉田松陰歴史館」です。
これも、松陰神社の境内にあり、入場料は大人500円です。
ここに展示されている松陰と師・佐久間象山との出会い、黒船密航を決行した下田渡海、そして野山獄、ついには処刑の場面を見ると、わたしは冷静ではいられなくなってきます。次第に自分の中にも「狂」が芽生えてくるような気がしてくるのです。


わたしにも「狂」が芽生えてくるような気が・・・・・



今日の天気はあまり良くありませんでした。
今にも雨が降り出しそうでしたが、同行のムーンギャラリーの進藤美恵子さんが「大丈夫。わたしが降らないと言ったら、絶対に降りませんよ」と言い続けていました。
わたしは「その自信の根拠は、どこから来るの?」と心の中で思いましたが、あえて口には出しませんでした。宝生寺を訪問して樹木葬を視察し、その後で松陰神社を参拝すると、進藤さんは「後は、もう帰るだけ。さあ、雨が降りますよ」と言いました。
すると、本当に雨が降り出したので、わたしは仰天しました。
いやはや、この人は魔女か!? それとも、自然を司る聖女か!?
その正体は、料理が得意な上級心理カウンセラーです。
ということで、今日は進藤さんをはじめ、古賀さん、林副支配人、渕上リーダーらと一緒に萩を訪れることができて、とても楽しかったです。


2012年4月10日 一条真也